私は思い出したようにして京都の嵯峨野に訪れる。
祇王寺は私にとって京都の出発点になった場所である。
古文の教科書に在った平家物語「古督(こごう)」に魅せられた私は、ある時、夜行列車に乗って京都へ出かけたのであった。
「天龍寺」前から直進して古督の巻に登場する「清涼寺釈迦堂」前を左折して「二尊院」を右折すると左手に「祇王寺」への道が出てくる。この小さな庵で私は平家物語「祇王・祇女」の物語を知ることになる。宿泊した宇多野YH(ユースホステル)で、同宿者から大原の寂光院を学ぶことになる。私が17歳の話である。
当時は今と違って古文に登場する主人公が生きた跡を追いかけて旅をする若者が大勢いた。私もその一人であった。いまどき好きな歌手を追いかけることとそう違いはない。書物が情報の主流であった時代には、青春のエネルギーを向ける対象は、ことごとく限定される。この旅で私は旅のきっかけになった「古督」だけではなく「祇王祇女」、「大原行幸」を知ることとなった。
平家物語が、平安時代の末法思想を背景にして、諸行無常を語ったものであることは誰もが知っているが、平安の物語が平成の世にまで伝承されているのはめずらしい。平家物語にでてくる「祇王祇女」は諸行無常を伝える哀しい物語である。
私はこれまで何十回嵯峨野を歩き、祇王寺をどれほど訪ねたことであろうか。それはこの小さな庵に秘めた古典物語が美しいだけではなく、庵そのものが四季折々に輝いていたからである。新緑の頃は祇王寺の若葉が陽光を浴びて自らが光り輝いた。日中と朝夕、温度差の激しい嵯峨野は、秋には息を呑むような紅葉で辺りを赤く染め上げた。
幾度か祇王寺の小さな庵を訪問した時に、庵主高岡智照尼に私は出会った。智照尼はうりざね顔の美しい人であった。瀬戸内寂聴の「女徳」そして智照尼の自伝「花喰鳥上下巻」で庵主は自分を晒す。私は祇王寺で購入した智照尼のサイン入りの花喰鳥上巻を持っている。
この本によれば、高岡智照尼は明治29年生まれ。本名高岡たつ子という。
たつ子は明治41年、12歳の時に鍛冶職人の父の手で売られる。大阪宗右衛門町の置屋で芸者の芸を仕込まれて13歳にお披露目。名前を千代葉とした。
持ち前の美貌で人気が出るが、好きな人ができたことを贔屓筋に嫉妬されて、千代葉は自分で左手の小指を切り落とし贔屓筋に差し出した。
後に女徳を書いた瀬戸内寂聴は、「小指を見せてもらったら上手に切れていてかわいい指だった」と述懐している。
この事件は大阪の花柳界で知れ渡り、千代葉は大阪へ居られず、人の伝手で新橋の芸者となり、名前を照葉と変える。ここで照葉は、お金と欲の三昧に浸る。酒に溺れ、同性愛にすさみ、自殺未遂をする。28歳の時である。
自殺未遂を契機として、このまま死んではいけない。古い自分を捨てないと新しい自分に生まれ変わることはできないと気づく。5年にわたる修行をして、たつ子は仏門に入る覚悟をする。おりしも廃寺となった祇王寺を紹介されてこの寺の庵主として再び命を生きることとなる。
新緑の祇王寺は陽光を溜めて木々の若葉が自ら光を放っていた。私は祇王寺に訪問する度に「智照尼はお元気ですか」と受付の女性に声を掛けていた。
朝早く訪問すると受付の女性はいつでも「まだ起きていないのと違いましょうか。なにしろ元は芸者さんでありましたから朝が遅いのです」とゆるやかな京都弁でいじわるにも聞こえる返事をしていた。
この度は違っていた。
「智照尼はなくなって何年になりますか」
「平成7年でしたから、もう13年ほどに」
「お幾つでなくなりましたの」
「99歳の大往生です」
「いまはどなたが庵主さんを勤めてますの」
「一緒にやっておられた方がそのまま継いだのです」
私はゆっくりと庭を歩いた。ふと足元を見ると濡れるように活き活きとした庭苔に赤い椿の花が落ちていた。私は南禅寺管長であった柴山全慶師の「花は語らず」を思い出した。
この地は諸行無常を知る地であるか、あるいは永遠に滅びぬ生命がここに輝いていることを知る地であるのか。すべては感じる人の心次第であると思った。
私は庵に上がって、祇王寺の丸窓を楽しんだ。智照尼が60年間暮らした庵の丸窓である。
それから境内にある、祇王・祇女・母の刀自、そして仏御前の墓石と並んでひっそり眠る智照尼の墓前で手を合わせた。春の祇王寺参りはこれで幕を閉じた。