私は祇王寺から二尊院へ足を向けた。
ここは紅葉の名所として知られているが、若葉の二尊院も捨てたものではない。紅葉はどこかにうら哀しさが残るが、新緑の頃は溌剌として寺全体が青年のように輝く。
私は今回、嵯峨野の旅を祇王寺と二尊院の二箇所に留めた。向井去来の落柿舎、嵯峨天皇第八皇女有智子(うちこ)内親王(807年~847年)の墓は、二尊院のすぐそばに並んであるのだが、あえて訪ねなかった。有智子内親王は平安時代の漢詩人として文才を発揮した皇女として有名である。化野の念仏寺も、常寂光寺も、大河内山荘も外した。
大河内山荘は、いうまでもなく昔、一斉を風靡した俳優大河内伝次郎が贅を凝らして小倉山の麓に作った別荘である。35年程前に中目黒に支店を時の経営者が出していたことがある。線路沿いの雑踏な飲食街に、降りてきた鶴のような店であった。
私は当時、建築家の菅原裕さんと二人で中目黒にある大河内山荘の常連であった。
そのため、嵯峨野の大河内山荘で夕食を食べると中目黒店長に申し込んでから嵯峨野の山荘に行った時のもてなしの料理は生涯でこれ以上の経験をしたことはいまだにない。
刺身は60センチくらいの大鯛が大皿に乗って一匹まるごとでるのだが、鯛の肩部分だけが一人三切れほどの刺身として身が開いていて、これが刺身であった。しかもそこだけを小皿にとったあとに鯛を使った料理は出なかった。
菅原さんとの豊かな思い出が残る大河内山荘も訪れず、私は祇王寺から二尊院へ足を向けたのであった。
紅葉の頃には息を呑むほど赤く染まる木々は、若緑色でむせるような精気を発していた。
私は、この時期に死んでしまうのではないかと毎年新緑のころをおびえるように生きている女性を思い出した。新芽が一斉に芽吹く頃、私は胸が苦しくて息ができなくなると言っていた。若い腺病質なイラストレーターであった。
そんな過敏な人は到底この坂を昇りきることはできない。山門から直線に伸びた緩やかな昇り坂には、光り輝く新緑の精気が満ち溢れている。
連休直前というのに観光客は少なかった。私は本堂に昇った。親鸞上人は法然に帰依して綽空(しゃっくう)と名前を与えられる。
本堂には綽空と直筆のサインが残されている巻物が展示されている。親鸞も昔に生きていた人間であったのだとつくづく思った。法然にはこれだけ多くの弟子がいたのだが、親鸞だけが苦難の末に後の世にまで影響を与える僧になった。
二尊院を歩いた後、京都駅へ戻り、都ホテルにチェックインをした後に冬に訪れた高台寺圓徳院を再訪問した。この夜は高台寺近くの割烹で友人と会食をすることになっていた。
圓徳院の北庭は、冬に見るのがよいというのが私の結論である。枯れ山水の庭に青葉は不要である。石組みこそ、この庭のすべてである。僧が座禅を組む姿に似た石組みは、木々の葉でその全貌を見ることはできなくなっていた。
ついで、私は夜まで待って待ち合わせをした友人と、ライトアップした圓徳院の北庭をみた。
ライトアップされた北庭の景色を見ながらこの座敷に座して食事をするのであればよいと思った。友人も同じことを言った。花より団子ではなく、花を見ながら団子を食べるのがよい。それから友人と割烹料亭で仕事の話題で花が咲いた。
仕事の話が終わると次は嵯峨野の薀蓄について話題が移った。
友人はそちらの話題はうとかった。関東生まれのあなたがなぜに、嵯峨野についてそんなに詳しいのかと訪ねてきた。
生まれ育った場所ではなく関心の有無が重要であると私は応えた。さらに経験を積むことだと私は言った。
それから大河内山荘の建物について語った。この玄関は客に「さあ入れ、さあ帰れ」と語る。玄関に続く栗の間は栗の木だけでできた部屋である。私はこの部屋が、包容力を醸し出しながら凛としてのすがすがしさを持っているかを擬人化して語った。
最近は食事酒としての量しか飲まないでいる。
飲みながら西ノ京唐招提寺に行きたいとふと思った。