圓山大飯店はかつて蒋介石夫人宗美齢が所有した世界10大ホテルに数えられたホテルである。日本が統治した時代にはここに台湾神社があったらしい。
淡水の帰りに私達は圓山大飯店へ寄った。大飯店とは台湾ではホテルのことである。英名ではグランドホテルという。いまから34年前、私が初めて台湾に行った年は、高級ホテルと言えば、圓山と中山北路にある国賓しかなかった。国賓はまさに国賓レベルの顧客が泊まるホテルで、英名ではアンバサダーという。
そしてしばらくの間、ホテルの飲茶で有名といえば圓山と、国賓、そして六福楼であった。
友人は私を圓山の金龍庁へ案内したわけである。
おかしなものである。ガイドブックを頼りにしながら台湾初めての人に圓山のメインレストラン金龍庁を案内してもらうなんて。
淡水からMRTに乗って圓山駅で降りてタクシーでホテルに向かう。ここまではガイドブック通りだが、ホテルに着いてから友人はあまりの豪華さに感嘆し我を忘れた。友人は天井の豪華さに驚いてロビーに寝て写真を撮りまくっていた。それから金龍庁はどこにあるのかときょろきょろと探した。
私は友人とは別に、昔、このホテルの2階会議室で行なったセミナーを思い出していた。
金龍庁の飲茶やスープは旨い。私達はこの飲茶をたんのうした。
昨夜はグロリアホテルであわびを丸々一個、とろりと煮込んだものと、ふかひれを一個まるまる煮たものを食べた。グロリアも昔は良く泊まったホテルであった。ここもガイドブックに載っているらしかった。今朝はホテルでバイキングであった。夜はどっかのホテルで湖南料理を予約していると言った。それから今日の3時(おやつ)には肉汁の入った旨い県泰豊の小包籠を食べるのだと言った。夜食は農安街に夜市で有名な餃子屋があるので餃子を食べると言った。友人は今年62歳になる。驚くべき食欲であった。
私達は飲茶を注文してビールを飲み、紹興酒を熱燗にしてレモンを絞って飲んだ。
観光はもういいのと聞くと、とんでもない。まだ見たいと言った。
「それではタクシーで回ろう。もう徒歩ではつらい」
友人もそれに従った。
圓山でタクシーに乗って、できるだけ歩かないコースで、忠烈祠、龍山寺、総督府、などをクルマで回ると運転手に告げた。
友人はガイドブックを出して、ここと言って台北101を追加した。台北101は超高層ビルである。それから最後にここで降りるとガイドブックを指差した。そこは県泰豊であった。
県泰豊の小包籠は確かに旨い。あの肉汁は絶品だ。だからいつでも混んでいる。
日本にも何軒か出店しているようだが日本の店は知らない。
友人の選択した料理は、ほぼ同じ系統であった。広東料理系である。
あわびやふかひれもとろりと煮込んだ料理の仕方は広東系である。湖南もどちらかと言えば味付けは広東と似ている。
香港が中国に返されることになって、腕の良い料理人の多くは台湾に招かれた。そこで台湾の中華料理は格が一段と上がった。料理人の多くは有名ホテルのメインレストランに入った。かつて私は台湾の財閥系企業から招かれて新たに進出する事業について意見を求められることがあった。それは3泊4日で行なわれたのだが、毎夜有名ホテルで豪華な食事が続いた。最後は食事がのどに入らなくなった。
この御曹司は頭の良い中国人に良く見られるタイプで、エネルギッシュに会議を仕切っていったが最後の日に私にこう告げた。
「これからのことを話し合いたい。コンサルティング契約をして小さな利益で満足するか、新しく設立する会社の株を持って株主の一人として一緒にこの会社を大きくして大きな利益を取るか、どちらかを選んで欲しい」
私は即座に応えた。「どちらもノー。あとはやらない」
「なぜだ」まるでアメリカ人のような御曹司は身体を乗り出して質問をしてきた。「あなたがなければこの事業は羅針盤がない船になる」
「替わりになれる人間を紹介しよう。その分も今回のコンサルティング料に含めて欲しい」私もビジネスライクに応えた。これで一件落着した。紹介した人間は2年間、台北で暮らして帰国した。結構楽しんだよと言ってくれたので救われたような気がした。
そのことを思い出した。
私は海外旅行をすると、日本食を探して日本食で通す。人は旅にでて日本食を食べるなんておかしいと笑うけれど、旅をスムーズに行なうためにはそれが一番の良薬なのである。
友人は私がタクシーの運転手に中国語で話し、レストランでも中国語で注文をしているところを見て興味を持ったらしく、なぜ中国語が分かるのと聴いてきた。
50回も来ていれば、そのくらいの言葉は覚えますよ。それ以外はできませんよと笑って返した。
友人は県泰豊で小包籠のほか、三種類のシュウマイと餃子を注文した。ここで私はずしんとおなかにきた。もう食べられないとする、からだのメッセージであった。というよりこれまでの経験から簡単にそうなってしまうのであった。一度アレルギーを体験すると、原因になる要素があるだけで簡単にアレルギーが発疹してしまうのと似ている。
友人は良く食べ、よく観光をした。健康な証拠であった。
「私は楽しかったです。先輩は慣れていました」日本に戻ってから友人はさらりと言った。
考えようによっては鋭い指摘であった。
「私の旅は、人との出会いが歓びになるのです。風景は動かないから感動が持続しない。料理もです。同じような料理が続くと感動が持続しない。からだが撥ね付けるのです。確かに私はいろいろなことに慣れているのです」
ここまで話して、もうこれ以上の説明は要らないと思った。
友人はまじめ一筋で大企業の人事、総務畑をそつなく過ごして2年前に定年になった。それから子会社で2年勤めたがそこもまもなく定年になると言った。友人は少し骨休みをして、それから仕事を探したいと話していた。私より学年で2歳後輩であった。まじめ一筋で生きてきたことは分かっていたが、旅先ではもっと顕著であった。ガイドブックは付箋をべたべた貼っていたし、選んだ店の情報はよく記憶していた。この旅に、黒スーツとネクタイ、もちろん白いワイシャツを着てきたことだけでもその真面目さが際立った。きっと観光地もほかに行きたいところがあったに違いなかった。
だからこの旅で全部を体験しようと思ったに違いなかった。それが一日5食になって顕われた。今度は妻を連れて台湾に行きたい。少しは分かったからと、言って笑った。
私は友人が夫人を連れて、どのような顔をして台湾を案内するのか、それを想像するとおかしくなって笑った。友人は私の笑顔が返礼と思ったらしく一段と笑顔を作った。