軽井沢の万平ホテルを遡って起源を見つけることは野暮なことであるのだが、ホテルの資料を見ると創業は1764年(明和元年)というから、244年前のことで、江戸時代は八代将軍吉宗の頃である。軽井沢は中仙道の宿場として栄えた。旅館亀屋も軽井沢宿の旅籠であった。いまの旧軽銀座は旧中山道であった。道を奥に進めば碓氷峠に出て、下れば高崎にたどり着く。その旧軽銀座から少し外れたところに万平ホテルはある。
軽井沢は明治19年、イギリスの宣教師A・C・ショーによって避暑地として認識される。なんでもショーのふるさとカナダの風景に似ているというけれど、軽井沢は当時、木が一本も生えていない湿地帯であった。ショーと行動をともにしたディクソン氏が亀屋旅館に一夏宿泊する。明治27年、亀屋旅館を亀屋ホテルに改造。そうして明治29年萬平ホテルに改名する。
私は永年の親しい付き合いである知人達と軽井沢万平ホテルへ宿泊した。私世代からはジョンレノンがこよなく愛した古式ホテルとして著名である。ジョンレノンが好んで飲んだロイヤルミルクティとケーキのセットは伝説になっていて、こうしてカフェテラスの片隅に座って珈琲を飲んでいると、来店する多くのカップルはロイヤルミルクティとケーキと注文をする。時間は夕暮れであったが、精度の高い我がライカはまるで描いたように杉苔の生えた庭を緑色に映す。古式ホテルは以前、結婚前の長女と行った長崎県にある雲仙観光ホテル以来である。
ステンドグラスは光を吸収して自らが光りだす。軽井沢の光は特別な光であると在住の画家が語っていたが、万平ホテルのステンドグラスも歴史を背負って特別な光を放つ。このホテルには皇室、政界、財界、芸能界、スポーツ界など世界的なレベルで人が通過している。歴史を飲み込みながらこのステンドグラスは今日もまた、何もなかったようにいまを照らしている。
ジョンレノンと仲が良かった料飲部のマネージャー小澤さんは、うちはお客様のどなたでも、その方が世界的に有名であろうと特別扱いをしません。ジョンレノンに対してもまったく普通に対応していました。彼は世界中で特別扱いされていましたから、そこが一番よかったのだと思いますよと語った。実は軽井沢のおもしろさはそこにある。東京では絶対に会えないほどの人がいとも簡単にフレンドリーに会える。この世界では自分はどこの誰だと威張ったりするといつの間にかつまはじきにされるそんな文化が根強く残っている。誰でも特別扱いしない文化。この文化が軽井沢を作っている。小澤さんは軽井沢の文化に添って普通におもてなしをしたまでです。どなたでも同じように対応していますと言った。
万平ホテル一筋で生きてきた小澤氏も、またキッシンジャーや田中角栄と同じように万平ホテルの一通過人である。私達は5人で1本のワインを空けて、それからバーで年代物のウイスキーを楽しんだ。このウイスキーは軽井沢にある小さなウイスキー醸造所のものである。スコットランドから泥炭で香りをつけた二条大麦を輸入し、スコッチと同じ製法でウイスキーを造っている。これが軽井沢の湿気とマッチして驚くほどの味を作る。
軽井沢にこんな夜の楽しみがあったのか。私は初めて軽井沢の高質な夜を体験した。
私は朝のルームから窓を開けて外観を写した。一階部分が昨夜のディナー会場であったと想定する。
チェックアウトを済ませて外に出るとカフエテラスには連泊する人たちがモーニングロイヤルミルクティを楽しんでいた。たまにはこんな時間を過ごすと心が豊かになると友人が言った。これが歴史の重みである。一泊二食付きの宿泊料は驚くほど安く、知人達は私にコネがあってこんなに安いのかと問い質してきた。いやインターネットで申し込んだからでしょうと私は答えた。
ちょうど脇田和・生誕百年展示会が行われていた。私達は万平ホテルを後にして脇田美術館へ向かった。これで軽井沢古式ホテルの旅は終わった。