生まれて初めての秋は、どこでも学徒出陣壮行会がおこなわれていた。2回目の秋は竹やりで鬼畜米英の撃退訓練をする母親の背中で迎えた。3回目は日本が敗戦をして初めての秋であった。この間私は二人の兄を失った。一人はビルマで、一人は長崎で。こうして幾つもの秋を経験し、私は今年65回目の秋を迎えた。娘達の子育てを助けている家内が久しぶりの休みであった。私は秋を楽しもうと家内をドライブに誘った。
やまぼうしの実は地上に落ちて朽ち始めていた。実は朽ちることによって次の生命を宿す。
この樹は小手毬と思う。
足元を見ればアザミの花が咲いている。都会に住むとカレンダーでしか秋を知ることは出来ないが、野に入ると自然が季節の移り変わりを教えてくれる。
軽井沢の瑞々しい杉苔は色が褪せて乾き、その上に今年の枯葉が覆っている。
秋はどこでもある。見えるか見えないかだけだ。私達は橋の手前でクルマを停めた。走っているときは見えないものでも、停まって見れば見えるものがある。刈り取った稲を自然乾燥している。まだ干したてで、わずかに稲の青さが残っている。なんという美しい緑色であろうか。
秋は、秋を感じる人の心のなかに存在している。高齢者が旅をするのはたくさんの悲しみや喜びを体験して、人生の真実をようやく発見することが出来たからである。へレンケラーが手に滴り落ちる水を、初めて水と名前が付いたものであると知った喜びと同じ種類の喜びである。サルビアの花がこれほど美しく感じるのはきっと人生の真実がわかりかけてきたからである。私が知らないものは私にとっては存在しないものに等しい。私が感じていないものは存在しないものに等しい。私が見えるものだけで私の秋は成り立っている。だから私はたくさんの秋を感じるようにしている。秋がこれほど美しいのは暑い夏の後にあるからである。秋がこれほどに切ないのは寒い冬が後ろに控えているからである。