私が奄美に行くことを知った恩師S先生は、島尾敏雄とミホ夫人に関するものと偶然に出会ったら写真を撮ってきてくださいと私に言った。偶然でよいのですよと念を押した。私はこの依頼をチャンスと捉えた。これでまた勉強ができるからである。
島尾敏雄は九州大学を繰り上げ卒業して海軍に志願。震洋18隊の隊長として加計呂麻島呑之浦に赴任する。震洋はベニヤ板で作った特攻艇。船首に爆弾をつんで敵艇に体当たりをするために作られたモータボートである。日本中に配置されたほか、台湾、韓国など当時は日本領土であった国々へも配置された。島尾敏雄は呑之浦と岬一つ離れた押角集落で小学校の代用教員をしていた村長の娘、大平ミホと恋に落ちる。ミホはノロの家系で、ノロになることが約束されていた存在であった。
島尾敏雄の著書『島の果て』を読むと夜に二人が岬を左と右から同時刻に歩いて落ち合う様子が描いてある。当時は道路がなく岬は山道であった。夜行性のハブがうようよしていた時代であるから二人はそれぞれに海沿いを歩いた。海沿いといってもマングロープが生い茂り、岩が行く手をふさいだ。そこでミホは海に入り胸まで海に浸かりながら岬越えをして岬の突端、これを鼻と呼ぶがここで出逢っていたのである。履物は脱げ、足から血が吹き出していると島尾はミホの様子を描いている。写真の岬がそのものであるのだが、戦前はこんなに美しく整備されていないことは十分に想像できる。
島尾に出発準備命令が下り、二人は最後の逢瀬を岬の鼻で行なう。ミホは後日、船が出て行くことを見定め自害することを決め、自ら白装束を着て特攻艇が出陣するのを待ったが船は基地からでなかったと記している。出発準備命令が8月13日。その2日後に戦争は負けて終わったのである。島尾の書によると洞窟は12あってここに特攻艇は隠されていたという。いまも洞窟は当時のままに残されている。
翌年に二人は結婚するが、白い軍服の隊長様から一介の文士に戻った島尾を見て憧れの隊長様は終戦と同時に消えてしまったと嘆く。その後、島尾の浮気がミホ夫人に露見することになり、ミホは狂乱する。やがて精神病院に分裂症として入院することになるのだが、島尾敏雄の代表作「死の棘」は、狂気に走るミホとの関係を描いて戦後を代表する文学作品と評価されている。
私たちは大平ミホの痕跡を訪ねて押角集落に出向いた。出会った老人の案内でミホの実家を訪ねたがあるのは門柱だけで家は跡形もなかった。老人はミホを知っていた。こども心にも美しい人だと思ったと言った。私は次に大平家の墓地に案内を請うた。老人は快くミホの先祖が眠る墓地に案内をしてくれた。
呑之浦にある基地跡地には島尾敏雄の文学碑が建っている。向こうに見える墓地が島尾敏雄、ミホ、そして娘のマホのもの。三人が分納骨されている。
私は墓地の後ろに立ち、呑之浦を見下ろした。島尾夫妻は何を夢見てここに眠っているのか。白い軍服を着て凛々しい隊長様の夢か、爆弾を抱いて敵艦に体当たりをする部下を見送った敏雄の悪夢か、それとも夫妻が描いた阿鼻叫喚の地獄図か。まさにこの場こそが特攻艇震洋の基地であり、夫妻が眠るのにふさわしい場所であった。ここは夫妻にとって安らかに眠ることができるような場所ではなかったからである。
上の写真、中央の緑地が基地跡で、ここに島尾の文学碑と墓がある。右の緑地が弾薬庫の跡地である。左手に伸びる緑地に小さく茶色に塗られているものが洞窟艇庫である。
基地跡を独占的に島尾文学碑と島尾の家族墓で使用してもよいのかと疑問がよぎったが、奄美の人が島尾夫妻に抱く想いの強さで、この突拍子もない企画を実現させたのであろうと考えた。普通、文学碑はひっそりと建立されているのだが、これほどまでに思い出の場所すべてを独占的に、使用しているケースは全国を見ても稀である。
弾薬庫の跡地に咲いている仏桑花は、大輪で血のように赤かった。命を失った兵士たちの弔いをいまだに続けているようであった。