それからわずか一週間あとのことであったが、暮秋の軽井沢は変貌を遂げていた。日はさらに地平線近くに落ちていた。午前の太陽が作る木々の投影像は伸びて冬の始まりを教えていた。夏なら太陽は頭上高くあるのに。
落葉松をカラマツと呼ぶ。名の通り秋になると金色に色を変えて落葉する。カラマツは軽井沢のシンボルのような木だが建築家には評判が悪い。唐松の葉には油が含まれていて腐葉しない。屋根に落ちたカラマツは屋根を傷める。庭に落ちた葉も腐葉土に還らない。そんな批評も気にせずに落葉松は晩秋の太陽を浴びて精一杯に最後の光を放っている。
この落ち葉はとちの木からであろう。とちの木はマロニエと呼ばれて都市の街路樹になるが、高原にあるマロニエは枯れ葉を踏みしめるだけでかさかさと乾いた音を立てて晩秋の足音がする。
とはいえ、紅葉は終わったわけではない。木によって紅葉する時期が違うので誰かが作ったスケジュール表に沿って遅まきの晩秋は残っている。建築家と私はゆっくり歩きながら暮れ行く秋を楽しんだ。
「珈琲を飲みませんか」と私は言った。然林庵の裏山は離れ山である。わずかに残る紅葉を見ながら私達はここで絶品の珈琲を楽しんだ。「珈琲がこれほどおいしいと感じるのは何故でしょうか」 建築家も珈琲を楽しんでいた。
「服部さんは室生犀星の居宅をみたことがありますか」建築家の問いに私はないと答えた。「好きな詩人ですが・・・」そう言って暗誦しているいくつかの詩のうち一つを諳んじた。犀星の詩が私達以外に誰一人いない然林庵の喫茶室にながれた。
先の日 室生犀星
わかれてゆく毎日 毎日にあった思ひ 誰も知ることのない思ひの渦が 背後に音を立ててながれてゐる 思ひはもはや悲鳴をあげない ただ ながれて往くだけだ なにもないところに 深い溝や 淵のやうなところに
あなたがたも 私も うしろを見たことがない うしろに音となって つぶれた毎日のあることを 毎日が死体となって墜ちてゆくのを 見ようとも知らうともしないのだ
けれでも先の日がきらめいて 何が起こり何が私達を右左するか判らない また先のおぼしまに 誰かが思案に暮れ 待ちわびてゐるかも判らぬ 先の日を訊ねて見よう 何処かにあるはずの先の日
室生犀星の居宅は、有名な旧軽井沢テニスコートに沿って東に進み、これ以上はクルマでは進めない小さな十字路を右に曲がって、こどもにピッタリお似合いの小さな坂を下って歩いたところにあった。「昨日までは中に入れたのですが今日は11月1日。軽井沢は冬支度をしているのです」建築家はそう説明をした。
私は犀星の若き頃の詩をたくさん読んで胸を弾ませたが最近は老境の詩も理解できるようになっていた。目の前に佇む軽井沢をこよなく愛した室生犀星の居宅の前で私は諳んじている老境の詩「晩年」を口ずさんだ。
晩年 室生犀星
僕は君を呼び入れ いままで何処にゐたかを聴いたが 君は微笑み足を出してみせた 足はくろずんだ杭同様 なまめかしい様子もなかった 僕も足を引きずり出して もはや人の美を持たないことを白状した 二人は互の足を見ながら抱擁も 何もしないふくれつつらで あばらやから雨あしを眺めた
建築家は私に「犀星がお好きなんですね」と笑って言った。服部さんはすでにそんな老境に達しているのですかという笑顔であった。私は「まだまだ未熟です」と詩の内容が私の心境ではないことを打ち消すようにどきまきしながら答えた。それから「犀星の若いときの詩を一つご披露しましょうね」と建築家に言った。これも建築家が発した笑顔の否定に過ぎなかった。
逢ひて来し夜は 室生犀星
うれしきことを思ひて ひとりねる夜はかぎりなきさいはひの波をさまり 小さくうれしさうなるわれのいとしさよ やがてまた うれしさを祈りに乗せて 君がねむれる家におくらむ
この詩を読んでから私は先に読んだ「晩年」と照らし合わせた。「逢ひて来し夜は」の対象と「晩年」の人が同じ「君」であったとしたら。きっとこの居宅がこの詩を作らせたのかもしれない。湿気の高い旧軽井沢での暮らしがこの老境を作り上げたのかもしれないと思った。
明日から3泊で奄美大島へ行く。泰さんは東京の感覚ではまだ真夏ですよと言っていた。