親しい知人は学生の頃、よくゴールデン街で飲んでいたらしい。年齢を重ねるとある時突然に過去へのノスタルジアが湧いてくるようになる。久しぶりでゴールデン街でも行くかと、二人は歌舞伎町を歩いた。私もゴールデン街は知らない場所ではない。若い頃、ギターラという名のフラメンコの店が歌舞伎町にあってダンサーやフラメンコギターを弾く人たちと、この街へよく飲みにでかけたものであった。いつも付いて来るジプシーは、私の持ち物に興味を持って、ある時など私が着ているシャツをいま欲しいと困らせたものだ。私がグラナダのタバルナでスペイン語を使って料理を頼み、踊り手に的確な合いの手を入れているものだから同行した会社の社長が「服部さん。なぜあなたはスペイン語ができるの」と驚いたわけは、フラメンコの舞台やこんな友人達を通じて学んだものである。彼や彼女はいまや自分の教室を開いて後進の指導をしているから連絡をしたらきっと懐かしがるだろうと、ブログを書きながらこんなことを思い出すのも私の年齢にふさわしい過去へのノスタルジアである。
さて、お目当ての店は閉じていた。ゴールデン街ではめずらしくもなんでもなく日常の出来事である。そこで新規開発でもするかと二人は嗅覚を働かせた。そうして飛び込んだ一軒がこの店である。店の中央に炉があって何もいわずに座っていれば炭火で炙った酒の肴が出てくるようであった。老いた女将は飛び込みの我々を歓待してくれた。本当は、はじめての人は、人柄がよく分からないからお断りをしてしまいますと説明をした。新内など江戸の芸が好きでよく聴きに参りますと静かに話をしていた。我々は食べて飲んでそれからひと時あと、名刺を渡して店を出た。料金といえば一人2千円台と我々は顔を見合わせてしまうほどであった。
ある日この女将から電話があった。私は店の名前も女将の名前も憶えていないので始めは戸惑った。電話の内容は、親しい人だけで集まりをやるから来て欲しいということであった。普通はこんな電話はしないのですけれど、と女将は言い訳のように言った。女将の嗅覚は我々が好客になる条件を備えていると直感したのだと思う。集まりの参加には条件があって一人一品、肴を持参すること。会費は一人3千円ということであった。せっかくだから行こうかと知人を誘って、二人はまたゴールデン街を訪ねたのである。
我々は店の常連で肴つくりの名人が持参した、たくさんの珍味を味わった。自分で作った「からすみ」から、この世の中にこれほどたくさんの肴を作れる人はいるのかと思うほどの数が出て、いずれも絶品の出来栄えであった。参加者には百貨店勤務の人もいたし、会社経営の人もいた。定年退職をしている人もいた。なんと2時間半も掛けてこの店にたどり着いた人もいた。聞くとこの店は今年で23年目ですと胸を張って答える女性もいた。好客三年、店を変えず、好店三年、客を変えずとはよく言ったものである。きっと女将は自分に合う客だけを選別して大事にしてきたのだろう。我々は女将のめがねに適ってそのお仲間に入れてもらったことになる。長年飲食業を続けて女将がつかんだ商売長続きのコツはこの一点だったのだろう。これは正しい選択だ。
ねえ。○○ちゃん。来月はいつにするの?と女将は常連の一人に言った。来月は何日にしよう。常連は日を決めて次はこんな肴を作って持ってくるよと言った。女将はそれでは来月は○○日ね。それで会費は3千円でいいの?と聴いた。常連はいいよと応えた。皆さんスケジュールよろしくお願いいたしますと女将は言った。どちらが主人であるか分からなくなった。きっとこの常連客が女将に話を持ちかけてできた集まりなのだろうと私は推測をした。
世の中は異なもの縁のものである。顔を合わせ続けることで親しくなって皆に会いたくて予定日を楽しみにする関係になるかもしれない。私がこの店の好客になるかどうかは定かではない。知人もそうであろう。親しくなるには時間が掛かるのである。それにあちらに好かれてもこちらが好かないことだって、またその逆も世の中には山ほどあるものだ。
グローバル資本主義や市場原理主義が、わずかの期間でこれまで培ってきた日本の好さである平等社会や人との絆を壊していった。これから地球はひとつ、グローバル時代で市場がすべてを決めるのだという思想はアメリカのグローバル資本主義にとって都合がよいだけのことであった。わけのわからないマジックを使ってお金を産み出し世界中に投機をし、儲からないとなれば手をさっと引くグローバル資本主義が崩壊してその欠点が牙をむき、日本もずたずたにされた。追いかけると中谷巌が小渕政権でこの思想を推進し、小泉構造改革で竹中平蔵が跡を継いで強力に推し進めた。そのわけの分からないマジックが実は実態のない空き箱とそっくりの証券に高い評価をつけて売買していたものとわかって大崩壊した。私もかつてサンフランシスコの金融資本主義で大成功を収めている人たちの住いや生活ぶりを見てこんなことがいつまで続くのかと疑問視したことを鮮明に覚えている。
日本の貧困率は14.9%でアメリカ17.1%に次ぐ世界第2位に落ちた。貧困層とは平均的な国民所得の半分以下の層を指す。こうした思想をリードしていった学者達、例えば中谷巌氏は推進した自分を悔い改めて悔悟反省文を本や新聞に発表しているが、竹中平蔵氏は、私は市場原理主義がすべてなんて言っていません。テレビはワンフレーズを取り上げるからそれが一人歩きしただけのことですと強弁を繰り返し嘯いている。
この店の出来事はどこか遠い田舎で起こったように思えた。あるいはトトロの世界に紛れ込んだのではないかと思った。新宿ゴールデン街の片隅で人との絆がしっかり出来ている姿を見ると、大きな時代の変わり目にあって新しいパラダイムは人との絆を大切にした社会にしなければならない、もう一度日本を取り戻さなければいけないと、未来へのノスタルジアは私の心の中を駆け巡るのであった。