先週は散々だった。わずかな階段の段差を脳は計算間違いをしていた。あたりは暗く歩道橋の最終段差がこれまで下ってきた段差よりわずかに違っていた。10センチほどの落とし穴に左足だけ落ちてしまった現象だが、捻挫をした。
その上、出版社に約束をした単行本の執筆締切日は迫っていて、週末は腫れた左足をかばいながら最後の追い込みをかけていた。
富士登山と一緒で、そこに頂上は見えていても三歩上がって二歩下がる胸突き八丁を歩んでいる。読み直して重複部分を削除すると、また文字数が不足する。論理の矛盾も見つかってまた修正をする。こんな状態を私はさんざんだったと表現する。
先日どこかの流行作家がこれまで書いた本の出版部数を積み上げると月に届くそうで月に届いた出版パーティをやったことが軽井沢関連のブログに掲載されていた。この作家はさぞかし大変だと思った。生きていて仕事をやることが大変だと思った。死んだらすぐに忘れられてしまうような仕事に精を出すことも大変だと思った。出版部数を誇る前に死んでも名が残るような作家になるのがよいのにと思った。
そう思ったら休む気になって庭に出た。めったにでない庭だが、この狭い庭にも春は訪れていた。アンズは桃色の蕾を膨らませていたし、冬の間に眠っていた草は、芽生えて花を咲かせていた。白木蓮も開きかかっていた。
庭に出た私を目ざとく見つけた我が家の犬は遊んでくれとねだって仕方がなかった。私は自分の都合だけで憂鬱になっていることを恥じてきた。そうだよな。お前たちにも、花にも、愛を注がないとな。
人の感情はすべては心から生じるものだ。憂鬱なんていうものは存在しないのだ。心で憂鬱を引っ張り出しているだけだ。原稿はA410枚を残すのみとなっている。書き始めたときは100枚を書かなければいけない。それがもう残りは10枚になっているのだから、憂鬱に感じることはないのである。
私は気を取り直して部屋に戻りパソコンの前に座った。次の週末はクルマを飛ばしてどこかの春へ出かけよう。そう思った途端、憂鬱の正体が見えてきた。私の身体も春になってきたのだ。冬の間中、もぐっていた身体が、咲く花と一緒に目覚めてきたのだ。