この丘は日露戦争の激戦場になった旅順203高地である。ロシアは清からこの地を租借して旅順と呼んでいた。ロシア語で遠い地という発音を漢字にした。不凍港を多く持たないロシアにとってここはアジアを植民地化しようと目論む上で格好の地であった。203高地からはロシア旅順軍港が真下に広がる。
203高地の頂上からみる旅順港である。日本海軍は写真中央部に見える左右2つの岬の海峡に船を沈めてロシア軍艦を旅順港に封じ込める作戦に出る。幾度も失敗をしたが諦めずに成し遂げた。そしてバルチック艦隊50隻を迎え撃つ日本海海戦に突入したのである。旅順を押さえることは日本の命運を掛けることであった。
これがロシア軍の旅順要塞である。ロシアはヨーロッパを西に侵略しイタリヤまで進む南下計画であったがそれを東下計画に切り替えた。中国、日本そして東南アジアに勢力を広げるはずであった。日露戦争に日本が負けたら日本はロシアの植民地に化していた。国の興廃はこの戦いに賭けられていた。
いま、不況なため、お金を使わないで都内の遺蹟めぐりが流行っているらしい。そのために一日乗り降り自由な都バス券が発行されている。ここ乃木神社は港区にある。日露戦争の旅順戦を勝利した軍人乃木大将が祭られている。ここもそんな老夫婦で賑わっていた。
こうして203高地の写真と、そこで戦った指揮官を軍神とした神社の写真を並べて見ることは、いまだからできることである。
乃木神社の境内から乃木さんの自宅への道がつながっている。乃木大将の住いが残されている。軍人らしい質実剛健な家である。ここを歩きながら日露戦争に想いを馳せた。江戸から明治に移って、列強帝国が弱い国を次々と植民地化する中で、その侵略が誰からも咎められない時代によく日本は占領されずに持ちこたえたものである。
それが日露戦争の勝利でもたらした戦果であることと、その戦争の勝利で日本も帝国化し、太平洋戦争の道を進んでいったこと。戦争に負けたことで日本は平和下の工業国家になっていったこと。そして成熟社会、少子高齢社会下で大不況を迎えていること。これが次にどこへ進むのか。
椿が咲いている乃木さんの庭で私は国家の興廃をしばし考えた。企業と同じように国家もまた興亡するのだ。日本連合艦隊の旗艦三笠から全艦艇に打電し戦意を鼓舞した「皇国の興廃この一戦にあり」は名言である。
いまも興するチャンスは一瞬である。平和ボケしている世襲政治家よ。興するチャンスを誰がどう捉えるのか。椿に問い掛けてみたが花は語らず精一杯にいまを咲いているのみであった。