待つ身のつらさを唄った歌は数え切れないほどある。佐伯孝夫といっても若い人は知らないだろう。今の歌詞のように直接的な表現はとらない、いい歌をたくさん残した。
たとえば「大阪の人」 霧が流れる 御堂筋 君待てど君は来ず 街は夜の化粧・・・・。
「有楽町で会いましょう」も佐伯孝夫の詞である。あなたを待てば雨が降る。 濡れて来ぬかと気にかかる。・・・。旨いなあ。
「君待てども」も待つ身のつらさを唄った詞だ。作詞は東辰三。君待てども 君待てども まだ来ぬ宵 わびしき宵・・・・。日本が復興しかけた昭和23年の歌である。
竹久夢二が作詞をして西条八十が補作をした「宵待草」は、待てど暮らせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ・・・・。どの歌も愛する人が来ないで、でも愛するがゆえにひたすら来るのを待つ心の苦しさを歌っている。
今年の桜を待ち焦がれている人にとっては、待つ身のつらさを味わったことだろう。今年は早いといわれながらなかなか咲かなかったから。
私は知人を待つ間、桜の木の下で何輪か咲きかけた桜の花を仰ぎ見ていた。恋は捨てたほうが敗者になる。待てど暮らせど来ぬひとを待っていた人は、待たせたひとを昔の姿のままで心に宿している。それが二十歳の頃の出来事なら、待たせた人はいまだに二十歳のままで待ち焦がれたひとの心の中で生きている。待たせたひとは、待って暮らした人を忘れているだろうか。それは聴いてみなければ分からないことだ。
冷蔵庫の中に入っている花屋の花が、硬いつぼみを開かないように、低温が続いた東京の桜は、ようやく花弁を開いて桃色の花びらを見せている。おそるおそるに。
私は今年も桜を見ることができた歓びを味わいながらも、色街に咲くこの桜はいったい誰を待たせていたのだろうかと思った。きっとこの花びらが開くのを待ち焦がれていた人はいるに違いないのだ。