単行本の原稿もひとまず終えて気分は一新した。原稿を書いているときは重箱の隅を楊枝で突っついているような仕事が続くので、誰とも会おうと思う気がなくなる。ひとまず終えたからといってこれで解放されてはいない。出版社からは三校までゲラが出る。それを一字一字ゆっくりと読まなければならない。文章って不思議なもので書いたときはベストと思うのだがしばらく晒しておくと、欠点がどんどんと出てくる。時には校正で大編集をおこなうこともでてくる。昔は活字を埋め込んでいたのだが、いまはパソコンで修正をしてしまうから、事無くできてしまう。出来上がった本を著者は読まないと言うのは本当なのだ。著者にとって出来上がった本は悪戦苦闘の残骸みたいなものである。だからひとまずなのだが、そのひとまずが大事な気分転換になる。そんなわけで日曜日は昨年の晩秋以来クルマで訪問していない軽井沢へ行こうと思い立った。週末の高速料金が安くなっているので混雑が気になったが、今年初乗りの高揚した気分には勝てなかった。
出発は午前11時。この時間なら混まないだろうと予測をして出かけたが、案の定道路はガラガラ状態で、あっという間に藤岡ジャンクションに着いてしまった。左折すると長野方面の道になる。道路の左右には桜やこぶしの花が咲いている。ここはまだ平地なのである。やがて富岡を抜けるとクルマは碓氷峠に近づいていく。ここは1500メートルはあるのだろうか。あたりは途端に冬景色になる。V8、4500CCのエンジンはまったくストレス無く碓氷峠をぐんぐん登っていく。軽井沢出口で高速料金は1000円かと思ったら1850円であった。ITはまだ細かいところまで修正されていない。見切り発車なのだが政局優先であらゆる出来事が決まっているのだから、日本国民はなめられたものだと思いつつも軽井沢へ向かって山を下り続けるのであった。浅間山は白煙をたなびかせている。この前新幹線で来た時は浅間にほとんど雪が無かったがまた新雪が積もった。
11時に出発しているから空腹で、南軽井沢を左折し18号バイパスにある一番近い蕎麦屋に入って十割そばを食べる。すると横に座って、それぞれミニ天丼と一枚のザルそばを二人で食べていた老夫婦がおもむろに立ち上がるとなんと女性は長い髪を丸めて上にあげて毛糸のキャップをかぶった。外にサイドカーが止まっていたが、この老夫婦のものだったのだ。歳は関係ないことだが、私より歳をくっているだろう老夫婦がサイドカーをつけた大型オートバイでツアーをしているなんて、若いころからやっていたのだろうなと一人で感心をしながら、急いでカメラを取り出して憧れの格好よい姿を撮影する。サイドカーをつけて走りゆく後姿はもっと格好よかったが見とれてしまいシャッターを押し忘れてしまった。
軽井沢はまだ冬景色に見えるのだが、目を凝らしてみるとそうではない。ふきのとうがあちこちで芽吹き、木々には若芽が萌え出ている。まもなく軽井沢は一気に春を迎えるのだ。こぶしが咲き、山桜が咲き、軽井沢で暮らしていた人たちにとって待望の春が来るのだ。
雪面を駆け下ってくる浅間颪はまだ冷たいが、湯川は雪解けの水を蓄えて音をたてて流れている。ここは入漁料を支払って魚を釣ることができる川だ。都会ではカレンダーでしか季節の移ろいを知ることができないが、ここでは風の音や木々の囁き、鳥のさえずり、川の流れに季節を感じることができる。もうすぐ春が来るぞと自然が一斉に騒ぎ始めている。