週末に行く画家の家へ無事に着けるか気になってきたので昼休みを利用して画家に電話をかけた。
画家は実に簡単に言う。「浅間サンラインをまっすぐ進めば新家の信号にでるからそこを右折してまっすぐ進めばうちの前に着きます」当方はGoogleMAPを見ながら話を聴いている。「浅間サンラインをまっすぐ行くと小諸警察の方に行きますよ。ここは街中ですよね」私は地図を見て言う。
「そっちへ行っては駄目ですよ。そっちはバイパスだから」画家は私の話しを否定する。「でも浅間サンラインをまっすぐ進めば小諸警察の方へ出ますよ」私は地図を見ていっている。
「そんなところは行かないですよ」画家はいぶかしげに言う。「もしも小諸警察に行ったら北に上がればいいのです」
「それに新家を右折しても道は毛細血管のように分岐していますよね。まっすぐといわれてもこれでは分からないですよ」私はGoogleMAPで確認して言う。
「1カ所右に曲がるところがあるのだけれど真っ直ぐです」画家は簡単に答えを返す。
案の定、田舎の人に道を聞くとこうなる。彼らはからだで体験している。私は脳で語っている。
「私は浅間山をぐるりと回って高峰高原から降りてくるコースを走ります。そのコースで教えてください。それに聞いた住所をGoogleMAPで検索しましたが、そんな住所は無いとでてきましたよ」
画家は住所が無いことには答えず「それにしても同じです」といった。「同じといっても高峰高原から降りてくるのですから浅間サンラインは走らないでしょう」と私は切り返えした。
「裏道もありますけれど、服部さんには分からないでしょうから、新家に出たほうがよいのです」それから「高峰高原は良いところですよ」とおまけを言った。
「そうそう」画家は話を加えた。「カーナビで来ないでください。とんでもないところに案内されてしまいます。行き止まりまで進んでしまったらバックで抜けるのはまず至難の業というところへ案内されます。クルマをべこべこにする覚悟で無いとでれませんよ」
私はこれ以上話をしても解決はできないと思い、電話を切った。それからGoogleMAPで浅間サンラインを拡大すると、追分から入ってしばらくすると浅間サンラインは左折するのだが、直進する道が別にあることが分かった。夏休みには子連れで賑わう松井農園に通じる道であった。GoogleMAPを最大化しないと出てこない道である。この道が新家につながる道であったのだ。でもここはMAPをどう見ても浅間サンラインではない。しかしからだで覚えた人は道の名前などどうでもよいことだ。
画家は「浅間サンラインを真っ直ぐ」といった。たしかに浅間サンラインに入って左折しないで真っ直ぐに別の道に入れば新家に到着する。「大浅間GCの切れ目から浅間サンラインは大きく左折をするが、そこを左折しないで真っ直ぐにある細い道を直進して道なりに進んでくれば新家に着く」と答えてくれれば話は早かったのである。しかしそれは脳で考えた結果である。
私はすぐに電話を掛け直した。「道は分かりましたよ。いま新緑がきれいでしょう」画家はすぐに反応した。「一番きれいな時期です。それからうちは集落のはずれに在りますから、もうないだろうと諦めずに進んでください。その道はやがて行き止まりになりますが、その手前にうちがあります」私はまた恐怖感に襲われた。「走った道が間違いで行き止まりになったらどうなるんですか」
画家は言った。「迷子になった道によります。どの道で間違えるか分からないのでなんとも答えようがありません」私は、クルマは怪我をすると確信をした。
「それでは糠地公民館の前で電話をしますから迎えにきてもらえませんか」地図には糠地公民館とポツンと描かれてあった。画家は馬で行きますと答えた。これで話はついた。一件落着である。