本来なら半年間で行う量を2ヶ月間で達成しなければならない仕事が1月一杯で終了する。日本でも指折り数える大企業の顧客政策立案に関する重要な仕事だ。目鼻もついてきてあとは微調整をして成果物を提出するばかりだ。我が社の優秀なる社員が担当しているが、人生の経験者としての私にも分担する仕事がある。そのため休日は仕事に明け暮れていた。
次の週末は新しいクルマの慣らし運転も兼ねて久しぶりに運転を楽しもうと思っている。絵画の師匠であるK教授をお誘いして400キロくらいのドライブをする予定でいる。本来なら慣れ親しんでいる軽井沢へ行きたいのだが今回は冬タイヤが必要のない静岡方面へ出かける予定だ。焼津の寿司を食べに行こうとする考えと、沼津の戸田へ行ってタカアシ蟹を食べて堂ヶ島あたりまで回り、修善寺で温泉に浸かって帰ってくる二つのコースを考えている。
中高時代に現代文を教えていただいたS先生と二年前に約50年ぶりの再会を果たした。大学文学部長〈学部長)を経ていまも綽綽として研究され著を出している。だれからも慕われた人間性豊かな先生で、麻布中高教諭時代の教え子は、今も社会で活躍されている政財界人が圧倒的に多い。私はS先生から、作家がどう生きたのか、そのときの時代背景はどうであったか。その時代に作家が表現したいテーマは何か、作品は作家が主張するものをどう反映しているか。名作か駄作かなどの、作品の見方読み方を教えていただいている。このことは50年前の話ではなく、たったいまの話である。敬愛する中学高校時代の先生からいまなおこうして薫陶を受けているのである。
K教授からも同じようにして絵画を評価する見方についての指導を受けている。絵画の見方は文学の見方とまったく同じである。画家はどう生きたのか、そのときの時代背景はどうであったか。その時代に画家が主張する根本的なテーマは何か、そして俎上にある作品は画家が主張するテーマをどう表現し反映しているか。名作か駄作か。
画家は糊口を凌ぐために主義主張とかけ離れて素人が喜びそうな絵を描く。あるいは著名な画家であっても描いている絵はすべて売り絵に分類されることもある。世の中にある絵の大部分は売り絵である。K教授は売り絵を嫌う。どれほど著名な画家が描いたものでも売り絵だと一瞥する。
S先生も同様である。次々とベストセラーを出しても、死んでしまったらすぐに忘れられる作家が大勢いる。そうした作家の作品を同様に一瞥する。絵画と同様に書店に並ぶ本も大部分は売り本である。今の世の中は利益最優先であるから、そうできている。販売至上主義であり本質が見失われている。
S先生とK教授の共通点は風雪に晒されても人々の心に強く残る作品を創造しなければならないとの主張である。結局は人間しか見る人も感じる人も評価する人もいないのだから、人間を描くことに尽きるのである。人間は時代背景の影響を強く受けて存在している。作家が創造する作品は時代の影響を受けて作者が人間としての喜怒哀楽を根源的にいかに主張し表現するかに掛かっている。その力量を持つ作家で作品は主張を実現しているかどうかが問われるのだ。このことは私たちの仕事も同じである。
お二人は同じことを私に教えてくれる。1943年生まれの私がいまだにこのようにすばらしい師に恵まれているのは声を大きくして叫びたいほどの歓びの一つである。23日はK教授と終日共にできる。最近交わした今井俊満の評価を巡って道中の話は尽きないと思う。