高足蟹(タカアシがに)は過去に一度食べたことがある。三崎にある海鮮料理屋でタカアシがにの足を焼いたものであった。特有の香りを持った、時に全長3メートルに達するほどの世界最大蟹は駿河湾の300メートルから500メートルあたりに生息し、底引き網漁で捕る。いまや戸田(へた)港が誇る唯一の観光名物になっている。
食堂で食べて1パイ〈一匹〉15000円から20000円くらい。この蟹は「食べぬバカ、二度食べるバカ」といいたい。「二度食べるバカ」は、一杯2万円もお金を出すならおいしい松葉蟹や大型の毛蟹をふんだんに食することに由来する。
伊豆半島は奇妙な形の山と、無愛想な畑と、そして観光地にしては不釣合いな貧弱な道路のために私はあまりドライブコースには選ばなかった。
この日私たちは、沼津ICで東名を降りた。NAVIは戸田への道を海岸線にとった。途中から道路は山に向かう。しばらくして山を転げるように降りると真正面に戸田の港がある。
戸田港にはご覧のような食堂が並んでいて、店先には客引きが立ち並んでいる。ここにも二軒が競業しているのだが、顧客は圧倒的に右の店に入る。その要因はインターネット戦略にあった。右の店はホームページを開いていて店舗へのガイド、メニュー、そしてタカアシがにの薀蓄を書いている。
極めつけは割引クーポンである。だから若い人たちはもちろん、中年のグループ旅行でもクーポン券を印刷して手に持って右の店に直行する。こんな小さな漁港の食堂にもインターネットの影響は押し寄せていた。
以降は私の浅はかな推測だが、熱心に客寄せをしている黄色い防寒衣料を着たお隣のおばちゃんは、なぜ右の店ばかりお客は入るのだろう。隣の間口が広いせいかしら!それにしても誰もが手に持っている紙はなんだろう。隣の店はあの紙をどこで配っているのだろうかと首をかしげているのに違いない。
K教授と四ッ谷駅近くで待ち合わせて、青山通りを抜けて大橋から高速に上がった。休日であっても道路は混雑していなかった。しかし沼津を降りてからが良くなかった。道路標識が地元を良く分かる人の手で作られているために、土地勘がない人にはさっぱり不明であった。そこであわててNAVIをセットした次第だが、現在地は戸田港へ行くコースを大きく外れていた。NAVIはコースに乗ってからでないと音声ガイドを始めなかった。
そんな余分な時間をたどって、途中の渋滞に巻き込まれながらも四谷から2時間45分でこの港に到着した。慣らし運転中のクルマはまだブレーキが甘く、タイヤは性能を十分に発揮していない。
エンジンも走行距離3000kmまでは3500RPM以上は出さないで欲しいとマニュアルに書いてある。しかし今まで乗っていたクルマと比べると車幅が65ミリも狭くなったこの小型車は、1300RPMで40.8kgmの最大トルクをだし、306馬力のエンジンは軽い体重のためか強烈なる加速をして思いのほかきびきびと走る。慣れてくれば人馬一体ならぬ、人車一体になることは十分に予測できた。
私たちは皆と同じように右の食堂に入ってタカアシがにの蒸したもの、刺身、深海魚の煮つけなどを少しずづ盛った竹コースを食べた。食堂のおばさんは、「タカアシがには地元の人には食べられないものなのよ」と、いかにも高価でおいしく高級な海鮮素材であるかのように言った.
「食べぬバカ、二度食べるバカ」のフレーズが思い浮かんだのはこのときである。しかし一方で試行錯誤の上、深海に棲む底引き網で引っかかるこのグロテスクな世界最大のかにを観光名産にまで仕立て上げた地元の人の苦労には頭が下がる。だから誰もが一度は食べて欲しいと願って「食べぬバカ」フレーズも付け足した次第である。もっとも味覚は好みの問題でもあるので、味覚に関する以上の感想は私見である。蟹の中で最高の味だと言う人もいるかもしれない。きっとそんな人はわずかだと思うが!
戸田温泉はやわらかくていい湯だからぜひ入っていきなさいと食堂のおばさんは声を掛けてくれたが、私たちは食べ終わると戸田港に別れを告げ修善寺温泉に直行した。。
修善寺温泉は週末というのにひっそりとしていた。オフシーズンであるからというのがその説明だろうが、熊本の黒川温泉や大分の湯布院温泉に学べばいくらでも活路はあると思いながらそれを拒むものは、過去の成功体験であり、経営者のプライドが許さないのだと思った。
私たちはクルマを流しながら修善寺温泉旅館の中で外見が良いところを選んで、乗り付けて日帰り入浴したいと申し込んだ。表向きにはそんな看板は出していない。日帰り客をとったら旅館の品位が下がると考えているのであろう。玄関外まで迎えてくれた若い和服の女性はしばらくおまちくださいと奥に入り、やがてお一人様1500円でお受けいたしますと返事を返してきた。相場は1000円であるから500円高い。500円高い料金を提示したここに、プライドがにじみ出ている。けれどもプライド通りに建物も浴場も品位があってこじんまりとして良かった。こうして私たちは久しぶりに修善寺温泉の湯でからだを温めた。
帰路、沼津ICから東名に入った私たちはすぐ、御殿場ICで降りた。真冬の富士を目の前で見るためである。御殿場出口を右折しクルマを須走市に向けた。途中から上がる高速道路は大月JCに接続しているはずであった。NAVIは戻れと元のコースに叫び続けているで解除した。これで静かになった。あたりは夕暮れになって太陽が当たらない雲は黒く変色して空を覆い隠すように立ち込めていた。しかし太陽が沈む西空からの光をわずかに受けて富士山は見えた。
私たちは富士山の東側を走った。忍野や裾野側である。富士山は間近に見ると威圧感がある。富士山信仰は人間に対する威圧感から生まれたのではないかと思った。
あたりはすでに薄暗い。それでも高速で走るクルマから富士山を静止画像で残せるくらいの性能をカメラは持っていた。しかしこの写真が限界であった。次のシャッターは開けても閉じるのに時間が掛かった。
クルマは外気温を感知して運転手に凍結注意のサインを送っている。外気温は1度であった。私は高速で飛ばしている。日中が晴れていたから道路の水分は蒸発しているだろうとの読みであった。これが雨天や雪が残っている道路であったら夏タイヤで走る冬の凍結道路走行は命取りになる。
K教授とはクラシック音楽の話が多かった。私にとっては遠い先祖のような歴史上の作曲家をぐんと手元に引き寄せ、人物に血を通わせて語ってくれた。モーツアルトやベートーベン、ワグナーが今も生きているかのように語る人間くさい話はめったに聴けるものではない。
私はサラ・ブライトマンの歌に魅せられているといってクルマのHDに収めたオペラのCDを掛けた。絵の話はわずかであった。今井俊満のことはEメールで語りつくしていた。
このドライブコースをおよそ400kmと出発前に踏んでいた。経験則での推定値である。帰宅してクルマの走行距離計をみると、な・なんと、400.0kmジャストで驚いた。帰宅は19時。ぶらぶらすごしてしまえば一日はあっという間に暮れる。こうして行動すれば10時間に満たない時間で自分の時間を、いや自分が設計した空間を楽しむことができる。
私はこの夜どういうわけか、ヨネヤマ・ママコと交わした会話を思い出した。「服部さん! あなたは自分が死んでも山手線は回っているし、富士山もあると思っているんじゃないの? あなたが死んだら山手線も富士山もなくなるのよ! わかる?」
なぜ古い話を思い出したのだろうか。よく考えると「富士山」がキーワードとなって古い脳の回路から記憶を抽出したに違いなかった。そこに紐づいただけの話であった。
こうしてK教授と一緒に行った初回慣らし運転の一日が終わった。蟹の悪口三昧に聞こえて仕舞うのはオトナゲないので最後に一句。
戸田人の 心も知らで 酔いしれて 高足蟹の 姿ぞ哀し。