彼は30歳のときに我が社に入社した。学生時代は音楽をやっていたといい、井上陽水を得意としていた。プライドが高くてツッパリ派であったが、気のよい、こだわりが強い男であった。美味いものが好きで小学生の日記は毎日何を食べて味はどうであったと書いたと自慢していた。しかし20歳年上の私に勝てるわけはなく、私から大きく影響を受けたに違いなかった。
私は彼に土地を教え、食べ物を教えた。福岡で仕事を請け負ったときは前日に九州のどこかへ入って土地を見せ、食べ物を教え、風土を教え、方言がどのようにグラデーションを作って換わっていくかを教えた。長崎では初めての観光客なら絶対に行かないだろう茂木港の料亭に連れて行って有明の魚をふんだんに振舞った。沖縄で仕事を請けたときは、彼に担当させて沖縄の文化と食を教えた。彼は実に嬉々としていた。
私はフレンドリーに付き合った。彼は普段着で付き合う私に追いつきたいと思うようになった。追いつけると思った。しかし追いつくには人生経験に違いがありすぎた。
40歳になると、ムリと承知しながら私を追いかけ、追いつけない苛立ちを嫉妬として私に向けるようになった。私は男の甘えに耐えながら、きっと一人前になりたいのだろうと考えて彼に会社を作って社長に据えた。他ではやっていないから絶対当たると信じているビジネスであった。彼は私の処置に感謝をした。私は事業の節目に適切なアドバイスをしたが彼は自分の考えを押し通した。日本を代表するビッグユーザーを彼に紹介したときも、彼は顧客先の条件が整わないとの理由でこれを蹴った。ここまできても彼は突っ張っていた。私に頼らず自分の力でやりたいと思っていたのだろう。そこまで気勢を張って事業に対峙したけれど彼の事業は成功しなかった。それが理由で彼は退職をした。
彼は14年間、私と同じ時間を過ごし、私から多大な影響を受けた。私と一緒に贅沢なほどに食事をし、音楽を楽しみ、いろいろな場所を旅した。そうして暮らした彼が、私から離れても、たくましく生きられるほどの強さを持っているとは信じられなかった。
私は彼がなし得なかった事業を興す準備を始めていた。1年以内に軌道に乗せて、私の手元から離れて暮らしている彼を呼び戻そうと言うのが事業を興す本音であった。
彼は無宗教な私に音楽葬を勧め、その時は自分がギターを持って陽水を謳うと自分で決めていた。彼は会社を辞めてからも陽水の歌がyou tubeに登場すると私に知らせてくれていた。陽水の「おやすみ」は、葬式に奏でるにはふさわしい曲だと言った。服部の音楽葬は自分が担当する。その席は誰も譲らないと言っていたが、順序が逆になった。
私は彼の夫人と昨夜も、そして今日も電話で話をした。逝ってしまった人はそれきりだが残された人は哀しみを擁いて前に向かって生きていかなければならないと私は告げた。彼女は気丈であった。時折涙声になっても、私と出会ったことが夫の人生にどれだけ価値があったものかを感謝を込めて語った。夫人はこの場にあっても冷静に大変に気を配る人であった。
「おなかが痛いと言い出してから2日間で死にました。私は学校の事業があり、それを外すことができないので学校に行ったり、大変でした。たった2日間の出来事であったとは思えませんでした」夫人は気丈にこう語った。
彼は私を嫉妬するほどに好きであった。やがて私と自分を重ね合わせることによって私と同じようになれると思うようになった。彼は職を辞するときに、「絶対に近づけない差があることは分かっていましたが、私は社長に嫉妬していたのです」と語った。「私に近づく必要性などまったくなかった。これからは自分の持ち味と特長を生かして生きるのです」と私は彼に話しをした。
棺の中の彼は眠るようであった。あらゆるものから開放されて実に安らかであった。読経が終わると音楽仲間が井上陽水の曲をかけた。祭壇には彼が愛したギターが2本、立てかけてあった。写真は私がかつて沖縄で写したものであった。
こうして一人の男が生きて、こだわって、愛して、そして死んでいった。私は安らかに眠っている彼と最後の別れに集中していた。