検察審査会とは何かというテレビ番組を見ていた。審査会に審査委員として参加した市民が、覆面で登場し、驚くべき発言を、それが全国民の合意であるかのように咬ました。
『法律は権力者が弱者を取り締まるために制定したものですから、私たち弱者は権力者に対して許してはいけないという感覚でいますね。これが市民感覚です』。
司会者が『法の下には誰もが平等であるという精神があるのですが・・・』と恐る恐る言葉を出すと『市民感覚としてはそうではありません』と再び咬ましたのである。
弁護士で民主党議員の辻さんは、第二検察庁が生まれたのですと危機感を洩らしていたが、私は、中世時代の人民裁判が、日本で復活したのかと耳を疑った。
警察や検察権力に批判が集まっているが、一方で市民感覚なるものが一人歩きをして権力を持つと、これもまた恐ろしい世界が生まれる。
誰でもが法の下に平等だから、政治権力者であろうと一般市民であろうと、事件が起これば調査され、時に逮捕され、起訴され、裁判に掛けられ、有罪になれば刑を負うことになる。これが民主国家というものだ。民主とは民が主と書く。
ところが、法律は権力者が弱者を取り締まるためにつくったものだから権力者に対しては理屈がどうであろうとも、許してはいけないと思うのが市民感覚だと明言されると、もうこれは、民主的な法治国家とは言わない。そんな人間が検察審議会に参加して検察が下した判断に対して起訴をするかどうかを決める権力を一時的にさえ持ったとすれば、もうクレージーな、何でも有りのイカレタ世界なのだ。
民主党の小澤一郎議員も、どうも怪しそうだし起訴だ!となったのではないかと思う。ここには証拠調べもないし、事実確認もない。検察審議会は完全密室で議論されるそうだが、メンバー11名の平均年齢が30.9歳ということが漏れてきた。もうこれで小澤一郎議員は長引く裁判に対応しなければならずその間は被告人だから政治生命をほとんど断たれたようなもので、これが市民感覚で決まったのだとするなら恐ろしいことなのだ。
検察もそして市民感覚を持った国民も、どこかの将軍様同様に、事実に基づかず、自分が組み立てたシナリオや、好き嫌いの感情、市民感覚なるもので他人を起訴できる国家になると、もう善良な国民は何をどう信じて生きるか分からなくなる
検察の権力は常時で、市民の権力は一時であるという意見もあるが、検察が悪を働く時は確信犯であるのに対し、市民感覚は庶民の正義感に基づいていることが恐怖の深層にある。検察のあってはならない事件だけではなく市民感覚なる検察審議会も「推定無罪」も、「法の下の平等」も存在しない、人権を無視した闇が渦巻いていると私には見えるのである。