私はネットで、週末に宿泊する温泉の評価を読んでいた。これがばかばかしいほど面白い。
「サービスも料理も温泉もとてもよかった。料理も美味しかった。でも露天風呂の垣根から町の風景が見えたので★★」。
「料理が量的に少なかったから他は満点だが評価としては★」。
この評を読んだ誰かが「会席料理でとても美味しかったです。会席料理としては量は多いほうではないかしら。★★★★★」です。
「建物の雰囲気も料理もサービスもそして温泉も何もかも最高。こんな温泉は初めてです。感激しました。星を10個ぐらい上げたい」。★★★★★。
極めて主観的なレベルの評価でも、星の数がまとまると平均値で表現される★の数はどんと重みを増す。こんな評価で店が格付けされ、来客数に影響を与えられたら、たまったものではないと経営者や社員は思うだろう。しかし残念ながら世の中は企業のメッセージよりも顧客のメッセージを信用する時代になっている。
九州は土地勘もあるので、どこに行くのでもNAVIを必要としない。九州の幹線道路は分かりやすく単純であるからだ。東西南北の方向さえ間違わなければ目的地にたどり着ける。
友は博多から熊本空港に来てくれた。阿蘇への道がよく分からないという知友からハンドルをバトンタッチし阿蘇を登り、次いで阿蘇神社経由で黒川温泉へ、翌日は高森経由で高千穂に、三日目は五ヶ瀬町経由で山都に出て熊本空港へのコースを走った。
私たちが泊まった宿の顧客評価は前述したとおりだが、私が評価を書けば厳しくなる。この宿には若いカップルがたくさん来ていた。いま思うとカップル受けの宿であった。ダブルベッドの部屋もあったし、私たちもネットで予約した部屋は後の確認でダブルベッドであった。ネットで評価を読むうちに私たちが予約した部屋はダブルベッドではないかと思うようになり、電話で確認を取るとそうだという。宿はカップルに向けて宿を設計したわけではないが、カップルに好まれたということである。だからネットの評価を読むと若いカップルが書いたと思われる記事が多い。
私たちは60代の男性二人ですと弁解じみた電話をしてダブルベッドを和室に変えてもらった。古そうに見える建物の内外装は、実は新しい材木でしつらえていることがすぐに露呈している。料理長がよく使う戸棚は塗りが手垢ではがれて白い木材の生地が丸見えであった。新しい材料を使って古く見せるのが悪いのではなく、塗装が剥げたらすぐに塗り直すほどのイメージを守る美意識が欲しいということだ。料理は・・・構えて食べると・・・・である。
けれども私の評価基準は何の役にも立たない。あくまでも私の評価基準であって若い人にはまったく通用しない。私のように口やかましい意見は嫌われるのだ。むしろ若いカップルが感じたままの、料理は旨かったけれど露天風呂から外がかいま見えたから★★という評価が天真爛漫で良いのである。
黒川温泉は団体客が減少することを予感して、団結して個人向けの宿に切り替えていった全国のモデルになった温泉である。奥深い山の中にあって、並大抵の努力では今日の名声を勝ち取ることはできなかったのである。この努力には★★★★★を無条件で差し上げる。
黒川温泉の泉質は素晴らしい。小さな谷にある土地の風情もいい。この宿の庭は手が入っていないように見せて実は見事に設計された庭である。
さて高千穂峡であるが、これから訪問する人たちのために、宮崎の著名観光地を守るために私の評価はやめておこう。この土地も阿蘇の噴火でできた風景だそうである。
阿蘇は見慣れているせいかこの雄大な風景を見てもあまり感動は湧かない。この感覚は地元人の意識である。感動は沸かないが妙に懐かしく故郷へ戻ってきたような気分になる。だから私は巨大な阿蘇の外輪山をぐるりと回るコースを走ったのである。
感動は比較から生まれる。失望も比較から生まれる。つまり感動や失望をコントロールする美意識とは比較の世界なのである。感動をしないということは歳を取った証拠であると誰かが言ったけれど、経験を積んだ証拠であるといったほうが正しいのかもしれない。私は何度も見た風景には慣れているが決して感動を忘れてしまったわけではない。人生は何年生きたかではなく何回感動をしたかである。こうして私の二泊三日の旅は終わった。