大震災を受けて東京の人々は心が萎えているようだ。百貨店ではファッションや高級品の売れ行きが止まったらしい。こんな時期に新しい絵画を壁に飾ろうと思う人は少ないし、高級腕時計を身につけようと思う人もきわめて少ないだろう。
まさに命を守ることと、将来の事故に備えてお金を使わないことに明け暮れているのが東京の人たちだ。
東京では、テレビで毎日放映される被災地の映像と、計画停電と原子力汚染の長期化がその影を人々の心に写している。私も事務所から後楽園の駅まで歩く途中の富坂では、人とぶつかることがある。春日通りから街灯が消えて夜道が真っ暗なせいだ。地下鉄駅も節電で薄暗い。
私はこんなときに絵画を見て勇気付けられている。今まではそんなことを思ってもいなかったのだが、キャンバスに向かい真摯に描いた絵と、売り絵として描かれた絵とが明確に分かるのだ。そしてその真摯さが心に響いてくるのだ。
一枚の絵が観る人の空腹を癒すことはできないけれど、困難な時に勇気を与えてくれることがある。一つの言葉、一遍の詩、一枚の絵が持つ力は大きい。私はそのことを実感している。
人はだれでも前にしか進めない。私は今の知恵を持ったまま20歳に戻りたいと言ってそれはムリだと笑われたが、一方で「私」という存在はだれもが「私」なのだから、結局のところ私は一人しか居ず、今の私であってよいのである。
今の私、つまりいろいろなことを経験した68歳の私が、いまこうして生きていることに価値があるのである。幾つになってもだ。
一枚の絵の話は、人間がどう生きたかを表している。自分も照らし合わせて生き方を選択することができる。そのようなことを感じるまで生きられたことはうれしい。
20歳に戻してあげるけれど経験値はすべて消えるよと言われたら、私はそれでも20歳に戻りたいとは思わない。なにもかも私の経験が今の私をつくり上げた。欠点もよく見えるのようになった私だがそんないまの自分がいとおしくなることもある。
そのいとおしさはことに触れて響く自分の感受性に対してだ。このことこそが私そのものであり、私の価値は、これからのことも含めて経験と感受性のうえに築かれたものであり、そのいとおしいものを捨ててまで昔の、あの20歳の頃に戻ろうとは到底思わない。
私はいまから過去の人たちに影響を与えることはできない。おそらく未来の人に対しても、50年も経過すれば影響を与えることは無い。私と同じ世代に生きて同じ体験をしている人たちにしか、影響を与えることはできない。しかしわずかでもそれだけの価値が私にあるとすれば私は発信するだけである。
今日は私の事務所にある絵画をゆっくりと観た。批評家の目ではなく批判される立場になって見た時に、画家の「存在」が見えて来た。
私は週末を利用して今年三冊目の執筆を計画している。私の役割を果たすためにである。私の存在価値を発信するためにである。