ピアニスト辻井伸行さんのTV番組を改めて見た。辻井さんの存在感は普通の人とは別個のものだ。この人には若者が持つステップアップしたい欲がない。普通の人が持っている五蘊はない。あるのは研ぎ澄まされた感覚で森羅万象を受け止める能力と、ピアノを使って表現能力だけだ。対話をする倉本聡さんがたじたじになり、やがて辻井さんに敬語を使い始める。それは辻井さんの清らかさに対してだ。
倉本さんに集まる若者は欲がある。倉本さんは若者の欲をうまく掴んで、そこを叩きながら教えていたのだろうと思った。その若者対処法が辻井さんには通用しなかった。なす術も無く倉本さんは辻井さんの清らかさに素っ裸にされてしまった。
倉本さんは私をどんな風に思いますか。音楽で表現をしてくださいと請うた。辻井さんは清らかな川の流れや風の音をモチーフにした即興曲を弾いた。倉本さんは恥ずかしそうにこんなに清らかではないとつぶやいたが、倉本さんから感じ取ったモチーフを即興曲にして奏でた辻井さんが持っている心の広さに、頭を下げた。
でも本当は、倉本さんは自然を求めて自然と暮らしていながら、何一つ自然と触れ合っていないことを恥じたと思う。おそらく、私の想像だが、いま吹く風に性格があって色まで付いていると語る辻井さんのことを森の精霊と思ったに違いないのだ。傲慢な倉本さんが神に触れたようにして畏怖の念をいだき、敬語を使い、負けたと表情をしたことが何よりの証拠である。辻井さんに負けたのではない。圧倒的な感受性の差に、負けたのである。
辻井さんの存在そのものが別次元にあると私はテレビを見て感じた。少なくとも同じ土俵で生きている芸術家にとっては、克てる相手ではない。倉本さんは、うらやましいを連発していたが、そのうちに羨望は尊敬に変わり、次には信仰のように辻井さんと接した。辻井さんは観音菩薩であることを気づいたのだと思った。