週末の朝7時に家をでて一人で軽井沢へ向かった。終日雨の予報で道路が混まないだろうと予測した。
関越は空いている状態ではなかったが、渋滞はなかった。ところが松井田妙義ICから碓氷軽井沢ICまでは事故通行止めであった。そのうえ、松井田妙義ICの出口が流出渋滞50分と表示が出ていた。
そこで松井田妙義ICの一つ手前、下仁田ICで一般道路に降りた。この道路は何度も走っているので知らない道ではない。
高速道路を使って目的地に行くことは、航空機を利用するようなものだ。ところが下仁田から軽井沢へ、田舎の町を抜けて急峻な峠道を登っていくコースをたどると、まるで鈍行列車に乗っているような気になる。時間があれば、そのような旅は寄り道ができて楽しい。おかげで墨絵のような美しい風景を見ることができた。
11時に軽井沢の知友と待ち合わせをしていた。前に軽自動車があえぎながらこの坂道を登っている。いま運転しているマイカーは、小型車ながら306馬力のエンジンを積んでいるので、このスピードがとてもまどろこしい。
けれども、私は追い抜こうと考えずに、追いたてもせずに合わせてゆっくりと走った。
天空を仰ぎ見ると、谷をつないで直線で架けられている上越高速道路が目に飛び込んできた。いつもは天空の道を走っているのだ。
自然界に直線は存在しないので、自然の中で人工的なものは違和感がある。違和感があるから目に飛び込んでくる。
私は、山道を登りながら無意識に考えをめぐらしていた。
高速道路という文明は、クルマの事故によって通行禁止になる。クルマはガソリンがないと使用できない。ガソリンは、やがて枯渇する。ガソリンに代わる代替エネルギーは電気になるだろう。
その電気が厄介なことになっている。
ここまで考えて、自然を克服することが文明であると気づいた。そして文明が発達することで(自然を克服できたことで)人間は増殖し、増殖した人間の衣食住、そしてそれらの源となるエネルギーと経済をつくらなければならないことになると思いついた。増殖とは非難されるべき使い方だが、20世紀初頭に世界の人口は63億人だった。それが21世紀で100億人を超すと予測されている。この生物の姿を増殖以外の言葉が他にあるだろうか。
文明が発達しすぎたことにより、自然を破壊する。時に宇宙のリズムは文明構築物を破壊する。
人間は生きていける自然空間を失って、最後は滅びると考えた。
文明とは、自然克服力だが、そもそも人類は、身の丈を忘れた文明をつくり上げてはいけない。原発は、確実に身の丈を忘れた文明建造物である。
しかしもう遅い。原発のごみは、なんと20秒で人を殺すほどの放射線を出すそうだが、放射能を減らすには10万年も掛かるという。鎌倉幕府が1192年。820年前だ。コロンブスアメリカ大陸上陸が1492年。
これらと比較して10万年という単位は人類が計測でき制御できる単位では決してない。
10万年単位では地層も動く。300メートル地下に埋葬?している高濃度原発のごみは、実は打つ手なしというのが本音であると東京新聞の一面に掲載されていた。
首相の私が責任を持つと言っても責任など持てるはずはない。大きな自然災害がないことをただひたすら祈るだけしか、人間にはできないのである。
1837年にイギリスで産業革命という言葉が使われだしてからわずか175年だ。
イギリスは、産業革命を成し遂げたさまざまな要因があった。なかでも世界中に植民地を持っていた、つまりは独占的販売市場を持っていたことが最大の要因であったと思う。
エネルギーを失うことは、経済成長を失うことに等しい。いまや文明とエネルギーと経済は直結しているからだ。
人類は、もはや文明を成長させる必要はないのだ。大事にするべきは民族の文化である。と考えてから民族の文化は厄介なものだとも思った。中東の戦争は宗教に絡んでいることを思い出したからだ。夏目漱石「草枕」の一節が思い浮かんだ。「とかく人の世は住みにくい」。
そんなことを考えているうちに、クルマは和美峠を抜けて軽井沢町に入っていた。軽井沢は濃霧の中にあった。約束の時間より1時間も早く着いた。この道は碓氷軽井沢IC出口からすぐの信号を左折したことで出る早道である。
南が丘についてから、幹から折れ、上半分が地上に垂れている「どろ柳」を片付けた。枯れ木のようになっている枝を手で折り、折れた幹を外して片付けた。濃霧の中を鶯が空気を震わせるような大きな声で鳴いていた。
移植した大もみじの古木は、しっかりと根付いていた。知友と、森の中でしばし語り合ったあと、グルメ通りにあるフレンチレストラン無彩庵で、ランチを食べた。
久しぶりに会った知友は、いつの間にか大人の女性が持つある種の雰囲気を醸し出していた。
いい味わいを秘めてきたな。人は人によって磨かれる。その証であろうと思った。
雨降る夜の高速道路は運転に気遣うので、暗くなる前に自宅へ戻ろうと思った。その日午後2時には帰路につき、4時過ぎには自宅に着いた。