ことし81歳の高倉健が主役となった「あなたへ」の試写会に誘われた。
主人公の夫人は遺骨を生まれ育った故郷の海に散骨して欲しいと遺言を残す。夫人の生まれ故郷、平戸市の小さな漁村にある郵便局留めで何かを送ってあると書き添えられている。こうして健さんはクルマのハンドルを握って富山から長崎の平戸島に向かう。
亡き夫人が健さんに伝えたかったものは、「私の人生は私のもの。私はこの小さな漁村で生まれ育ったの。そして私は死んでこの海に散骨をして私の一生は終わったの。墓などいらない。祭ることもいらない。これからは、あなたの人生を生きてください。私はもう自分の生涯を閉じたの」ということであった。散骨された夫人の遺骨は海中で光り輝きながら海底に沈んでいく。
葬式不用。戒名不用。と遺言を書いた白州次郎。私も同じことを家族に宣言している。白州次郎は妻正子とともに兵庫県三田市西山にある心月院に眠っている。しかし静かに眠っているかどうかはわからない。もみじのきれいなお寺には観光客が集まる。これ以上のことは書かない。
私は墓地も要らないと宣言している。このことを実現するためには、両親が作った墓を返さなければならない。最後の親不孝というべき、ややこしいことをやらなければいけない。それも元気なうちにだ。
「あなたへ」の原作者は次のように語りかけている。
一人の一生はどのような生き方をしても生まれてから死ぬまでの出来事である。生きて残された関係者は、死んだものを引きずって生きる必要はない。自分の人生を精一杯生きていくことだ。そして先に死んだものと同じように、死を以って自分の人生は完結する。それでいいのだ。そうやって人間は生き続いてきたのだから。
なによりも人生は途中が大事だ。立派な墓に入ることが目的なんかではない。途中途中に出会う人とのふれあいで人生は進んでいくのだ。どんな環境にあろうと前に向かって生きていくということだ。
映画のテーマが私の死生観と似ているので驚いたが、同時に今の時代に同様な共感を抱いている人は先進過ぎるものではないと分かった。日本民族にとってこの死生観はどこから生まれたのか。この映画はモントリオール世界映画祭に出品することが決まったそうだが、イスラム教やキリスト教などいろいろな宗教が信者の心を定義しているこの世界が、あの世などなく神も仏もなく、復活することもない、生きている間がすべてと定義する死生観を共感できるのか、私自身もう少し考えなければいかないと思っている。
科学の発達がなせる思想なのか。葬式仏教に堕落した寺院がなせる業なのか。教団そのものに問題があるのか。精一杯生きれば悟れる境地なのか。
よく考えなければいけないと思っている。