今週は奄美大島ウイークであった。与論島の奥さんの実家に旅している泰さんから驚くほど大きなマンゴーが届いた。御礼の電話で「船で行ったの?」と問うたら「今は飛行機があるの」と返事を寄こした。「それは便利になりましたね」というと、「仕事ばかりやっていないで遊びにきてよ」と返事が戻ってきた。
田町さんからも連絡があった。彼女は奄美群島のことは奄美の人より詳しい奄美大島ガイドだが、最近は興味が食に移っている。料理家になるんだと今は阿佐ヶ谷で腕を磨いている。今月末には奄美に帰るので手料理を食べにきてくダサい」というものであった。
かつて田町さんには、島尾敏雄の痕跡を訪れたいとガイドを頼んだ。京都生まれの田町さんはいいですよと二つ返事だった。島尾敏雄は福島県南相馬郡小高町出身の小説家である。
いま、訪問した痕跡の地を思い出している。
島尾敏雄が特攻艇震洋の隊長として赴任したかけろまの秘密基地跡地
そこにある島尾敏雄夫妻の娘マホの墓地
島尾みほの実家跡地
島尾みほ夫人の実家墓地
勤務していた学校
二人が逢瀬を重ねていた岬の鼻
敏雄が就職した名瀬の図書館
図書館横にある住まい
敏雄が通っていた教会
みほの葬儀を執り行った教会
敏雄の葬儀を行った教会
敏雄が死んだ後美穂が暮らした家
島尾敏雄の研究者でさえ、こんなたくさんのルートを見ていないだろう。田町さんはさらりとこれだけを案内してくれた。彼女の選んだ民宿は一世帯しか泊めないかけろまのゆきむらという民宿だった。
山川さんからも連絡がとれた、山川さんは珈琲の焙煎技術を磨いて「あまんゆ」ブランドの珈琲を
焙煎し販売している。あまんゆとは「奄美の世」という意味だ。
むかし奄美大島は誰からも支配されない時代があった。これがあまんゆである。そのあと「りゅうきゅうゆ」になった。琉球王朝の占領下に置かれたのだ。
それから1609年薩摩の支配下に入り明治の初期まで苦難を味わう、これが「さつまゆ」である。漢字で書けば薩摩世である。廃藩置県で奄美はそのまま鹿児島県に編入された。「やまとゆ」である。
太平洋戦争後、奄美はアメリカに占領される。これが「あめりかゆ」である。復帰運動を起こした後8年後に再び「やまとゆ」に戻る。
したがって「あまんゆ」は島の人にとっては軽い言葉ではない。山川さんはそれをよく知っている。
私は復帰50周年記念の世界奄美人大会で基調講演を行った。下の写真がそのエビデンスになる。
私は、昼間、田町さんの作る料理を食べに阿佐ヶ谷へ出かけた、ついでに友人の大島さんや山川さんにも声を掛けた。
私はこの日、試写会に誘われていたので、途中で失礼をして戻ってきたのだが、映画の印象をこのブログに書いたら、ブログを読んだ山川さんから母の希望で散骨をやったとFBにメッセージが届いた。
火葬した遺骨を粉末にしてくれて海でも山でも散骨してくれますと書いてあった。
奄美大島は風葬の島であったし、ニラヤカナヤ思想(琉球から」入ってきた原始的な海の浄土ニライカナイ思想)があるので散骨に抵抗感はない。普通にこんな話ができるのだ。
泰さんの夫人が生まれた与論島では土葬で埋めて数年後に掘り出し、骸骨と化した遺体を海で洗って納骨する沖縄の文化が最近まで残っていた島である。墓など要らないなどとこんな話が普通にできるのは、奄美の文化を持った人たちだからである。今週はあまんゆ日和であった。