むかしは心地よい時期が長くあったと思う。暑い夏が過ぎ去ってから、寒くなるまで、寒くもなく暑くもない心地よい期間が長くあった。また寒い冬が終わって夏になるまで心地よい期間が長くあった。春夏秋冬は各々が3か月。それで四季であった。
いまは寒い時期が4か月、暑い時期が4か月、心地よい期間が春秋合わせて4か月、まるで三季になってしまったようだ。
私は毎年11月に、恒例の風邪をひく。この風邪をひいて免疫力を高めて寒い冬を乗り切るのが私の毎年の行事なのだが、ことしは軽井沢へ行く予定の前日に風邪を引いた。
一緒に行く予定であった知友に行けなくなったことを詫びて、来年は4月のGW前か、5月ですねと、鬼が笑うような約束をした。
木曜日にかかりつけの診療所に行ったら閉院していた。金曜日に行ったらまたも閉院していた。小さな張り紙に気づき、よく読むと月曜日と水曜日だけ治療をしている。というわけで風邪薬を飲まずに回復を待った。
私は69回の四季を過ごしたわけだ。地球が太陽の周りをたった69公転しただけだ。いろいろなことを体験したと思うけれど、実は69公転した時間に起きた出来事だ。その間の何を記憶しているのかといえば、あまりない。思い出せばいろいろとあっても思い出すための引き出しが整理できていない。
私は記録が苦手だ。いつでも前に進むので、過ぎ去ったデータを保存して置く余裕がない。しかし、こうして秋が深まり、都会の木々が黄色く色づくころになると、ふと心を止めて振り返ってみたくなる時がある。
風邪の療養で過ごした土曜日に、iPadを開いてこのブログを読み返した。するとブログにまつわる当時の出来事が、次々と意味深く思い出した。記録こそが記憶だ。記録を見れば記録されていないことまでも思い出せる。
このブログに載せた一枚の写真から、泰さんや徳校長の笑顔を引き出すことができる。宇宿小学校の校庭や、予路島の風景や、予路小中学校教頭の笑顔を引き出すことができる。いまは東京にいる田町さんの笑顔を引き出すことができる。なによりも美しいサンゴの塀に潜んでいるハブの姿を想像できる。ハブと人間の交点であるこの空間にブーゲンビリヤの花弁が色を添えている美しさも、トリミングを外した情景として思い出すことができる。まさに記録こそが記憶なのである。
宇宙の働きから見れば人は誰でも、無数にある一個の生命に過ぎないが、個の人間にとっては経験こそがすべてである。過去の経験を時折思い出すことで、未来を修正できる。思い出こそは感傷に浸るものではなく、次の一手を制御できるログデータでもあったのだ。
今日は日曜日。12月初旬に重要なセミナーが二つある。また、某製薬会社は私の提案を待っている。そんなわけで今日はその資料つくりのために仕事だ。風邪は完治ではない。背中は当たっていない風を受けているかのようにゾクゾクとする。こうしてランチ後の時間を使って旅の寄り道に記録をしている。なにしろ記録が記憶なのだから。
いつのために記録しているのか私にはわからない。わかったところで意味はない。何の目的で記録をしているのかもわからない。
けれどもいつか、私が引退し、軽井沢の森の中で、庭の手入れをし、雑草を抜き、山野草を育て、きっと慣れない手つきで薪を割り、薪を運び、常に二冬分の備蓄を整え、部屋に戻って一日の情景をブログに書き写すことが日課であれば、それはそれで日本だけでなく世界にいる知人たちと交信ができることになり、楽しい生活が送れると思う。
私の知人は20代から80代までバラエティに富んで、しかもどの年代も平均的に分布している。このことが私の若さの秘訣であり財産だ。
だれかがブログをひも解いてくれれば、それはとても価値あることだ。だからやはり記録することが大事なことだと思う今日この頃である。