沖縄に住む歌手の喜納昌吉さんは、私にこう語りかけた。「花を追い掛けてはいけない。根っこを見つめていかなければいけない。根が咲かせる花を見なければいけない。どの根がどの花を咲かせるのかを見つめなければいけない」と。
私は、軽井沢の冬枯れした森に立って、この枯葉を眺めていた。この葉は「栃の木」である。生命を守るため幹から切り離された大きな葉が散って土に戻る直前の姿である。
落ち葉は、やがてバクテリアによって分解され、腐葉土になり、土に還る。
私に原理原則とは何かと問われれば、一つだけ簡単に答えてくれと問われたら、「宇宙のリズムを認識し、認識に添った行動基準である」と、答えるだろう。
宇宙のリズムとは、地軸の傾きと、地球の公転と自転がもたらしているリズムのことである。地軸とは北極点と南極点を結ぶ運動しない直線のことで、公転面の法線に対して23.43度傾いている。そのため四季が生じる。
原理原則は地球上のすべての人間に適合するか。するものもあればしないものもある。
日本人の人生観は、日本の国家が島国であること、集落社会であること、そこで自然と共生し自然の美しさを愛でる心を持っていることの三つで成り立っている。
つまり地球の緯度・経度・、日本内の緯度・経度・標高の三軸で日本人の根底に流れる思想と、行動基準は定まっているのである。それこそが日本人の原理原則だと思う。
私は、枯れた落ち葉と、新緑のころの若葉と比べて、どこが違うのかと考えた。
そして「ともに生の一瞬である」と認識をした。
落ち葉は、朽ちるだけであり、成長などするはずがないと思うだろうが、落ち葉は腐葉土になるために成長をしている。枯葉は腐葉土になる幼児期である。
やがて腐葉土と太陽が、また若芽を大樹に育てる。
個々は生死を繰り返すが生命の連鎖こそが、宇宙のリズムでの原理原則と思う。
こうした考えは、島国であり、集落社会であり、四季のある緯度経度に存在したことにより発想する。熱帯の国々ではこのような発想は国民の原理原則にはなりえない。
したがって原理原則は、哲学観、美意識観、宗教観、倫理観などの有無と質量とで変わってくる。
もう少しわかりやすく話をまとめよう。
ある恋多き男性が、たくさんの女性を恋人にしていった。彼は女性を花に例えた。いまの恋人はバラの花。その前は百合の花だった。その前は都忘れであった。
やがて彼は遍歴の後に真実を知ることになる。
若き女性の本質は、強き子孫をつくるために経済力の強い、容貌のすぐれた男を求める。そのために自らを美しく着飾ると。自らが着飾るために経済力を求めるのではない。経済力ある生き方を実現できる能力のある種を選んでいるのだと。
宇宙のリズムに照らし合わせてこの到達点は正しいと私は思う。
野生のトラは、数頭生む中で一頭だけを特別扱いして強く育てる。やがてなわばりを決める戦いで強く育ったトラが勝ち残り、他のトラは縄張りから離れていく。
強いものだけが生き残り、弱いものは負ける。弱肉強食こそ自然界の行動基準である。この認識は緯度経度標高で異なるものの、底辺に貫いたものである。人間もまた強き種を選択する自然界の行動基準にしたがって判断をし行動を起こしているに過ぎない。
軽井沢の森に立って栃の木の落ち葉を見ながら、そんなことを考えていた。