軽井沢がこれほどまでに人を魅了するのは、軽井沢町が人工的につくられた町だからだ。浅間山山麓をテンプレートにして、樹の一本、花の一株までがすべて人の手でつくられたものだからだ。
昔の写真を見ると一目瞭然で、軽井沢は湿地帯、沼地ばかりで木が一本も生えていない貧しい宿場だった。それでも宿場として成り立っていたのは、難所碓氷峠の隣であったからである。江戸から中山道を下ると碓氷峠のふもとに坂本宿があり、ここで旅人は荷を解いて難所碓氷峠を明日登りきるための英気を養った。そして碓氷峠を越えた次の宿が軽井沢宿であった。
いまの軽井沢は軽井沢を開墾した雨宮さん、野沢さんなどの力の賜物で存在している。軽井沢インター出口から山を下り、馬越ゴルフ場まででると道はやや平坦地になる。ここから現在の旧軽井沢までは、舟で渡ったという。
これほどの湿地帯をいまのように開墾した先人たちの努力は大変なものであったと思う。
矢ケ崎川の流れを変えて沼地を埋め立てていったわけである。南ヶ丘も沼地であった。私の好きな森も昔は開拓農家が作物をつくっては失敗していた場所である。
一木一草に至るまで人が植樹してつくり上げた町、それが現在の軽井沢である。
明治時代になって軽井沢は寂れてしまったが、ACショーに避暑地としての魅力を見出される。ACショーは英領カナダの宣教師である。
キリスト教を布教するために日本に渡っていたが布教活動の制約もあり、福沢諭吉の子供に家庭教師、後に慶應義塾大学倫理学教授をやっていた。ACショーが、明治19年たまたま通りかかった軽井沢が故郷に似ていたこともあって気に入り、軽井沢に教会をつくり自宅をつくる。これが別荘第一号と言われている。
これをきっかけに暑い東京を離れて外国人宣教師が軽井沢へ訪ねるようになった。すると和式旅館ではなく洋式ホテルが求められる。パンつくりも求められる。併せてジャムつくりが求められる。
軽井沢開発は雨宮敬次郎の手による。
明治16年養蚕事業で財を成した雨宮(あめのみや)は、欧米視察で荒れ地の開拓事業を思い立ち、浅間山麓に広大な土地を入手する。ブドウ栽培に失敗、開拓農家を建設して失敗、やることすべてを失敗して失意の中落葉松(からまつ)を植林したところ根付き、植林王になる。雨宮は南ヶ丘周辺を中心に開拓した。いまでも18号線に面して雨宮御殿が残っている。南軽井沢信号を追分方面に向かうと、すぐに雨宮橋の標識がある。
避暑地をつくった先人として野沢源次郎、近藤友右衛門、堤康次郎の名前が上がる。
野沢は大正時代に野沢組として奉仕の精神で軽井沢を開発した、いまでも野沢原という名が残っている。
近藤はつるやの経営者として旧軽井沢から見晴らし台への道を整備したことで知られている。
堤は西武だ。
こうして軽井沢は、避暑地として、外国人、政財界人、作家など経済的に成功した文化人が集まることになり、これらの人々の知性にとって好ましい町づくりがなされた。だから軽井沢は他の避暑地とは一線を画す人工的な自然美を持っているのである。