謹賀新年
安倍総理が靖国神社を参拝したことの是非を巡って新聞社は独自の論評をしている。肯定派はサンケイ新聞。批判をしているものの賛成している読売新聞。一方反対派は朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、そして日本経済新聞だ。
一言で言えば、賛成派は、国のために命を捧げた人たちを祀り、総理が参拝することがなぜ悪い。A級戦犯は戦勝国が一方的に決めつけたものという。
反対派は、靖国参拝は軍国主義台頭の兆しという。A級戦犯の存在を認めて国際社会に復帰したのであるから今更戦勝国が決めつけたとする論は成り立たないという。
中国は、昔から戦勝国が敗戦国の王陵を全破壊することを行ってきた。遺骨や埋葬品は川へ流し跡形もなく壊した。王陵を残すことで敗戦国の残党が王陵を精神的支柱にして復活することを恐れたからである。
朝日新聞によると、オバマ政権の主張は中韓との関係を修復しなければならない時に、なぜ火に油を注ぐことをやったのかということらしい。日中間での火種を増やさずにもっと上手に立ち回ってくれということだ。
日本は死ねば、だれでも即仏様になってしまうとする精神文化を持っている。死んでしまえばみな仏様。死者を鞭打たないおおらかさがある。日本人は善悪を分けて考えるのが得意な民族だ。
例えば、尖閣諸島は日本が所有する島々だ。ここに悪者中国が俺の持ち物だと因縁をつけて脅しに掛かっている。アメリカは日本を守ってくれている善の見方だと思っている。
事実は一つで安倍総理が靖国神社を参拝したことだけである。
昨年から盛んに歴史認識なる言葉がメディアを闊歩した。歴史認識とは後世の人がつくり上げた言葉である。そもそも人類の過去には無限に近い事実が転がっているだけだ。その事実を一つ捉えて、前後の事実と結び付けて、後世の人々がつくった物語こそが歴史の正体である。事実さえも存在したかどうかわからない。事実を裏付ける文書が残っているとしても勝者によってつくられた主観的な解釈かもしれない。
どう生きるか。何を支柱として生きるか。
島国に育ち、その緯度経度からして美しい四季に恵まれ、自然と共に生きてきた民族日本人は、非常に生きづらい時代に差し掛かってきているのかもしれない。
私の哀しみは、人類は幼い脳を持って生まれてくること。先人の経験は決して刷り込んで生まれてこないこと。個人は成長するが国家は成長しないこと。個人は衰退し消えるが、国家は世代交代をすることで衰退せず消滅せず、したがって成長しないことにつきる。
もう無益な競争をやめて共生の社会をつくることに尽力をしなければいけないと思うが、世の中はそうにはならない。都市に住む人々は都市の論理に振り回されて疲弊をしている。個人は成長しているのに組織は成長をしない。組織は世代交代を繰り返すからである。
2014年はどんな年になるかを恐れることはない。上手くやろうと思うことはない。自分が信じたこと、やりたいことをやればよい。私たちの未来に事実は転がっていない。私たちが生きたことだけが過去に事実となって転がり始める。その点をつなぐことで未来はつくられていくのである。