長崎 永田力 鉛筆画 額木村東八
私が22歳の時に永田画伯に出会った。私が入社した会社にロマンチストな社員が途中入社し、新入社員であった私の上司になった。彼は私にラフマニノフピアノ協奏曲2番を聴けと薦めた。その彼に誘われて東中野のシャンソニエ・マ・ヤンに行った。ここで永田力画伯と出会った。
画家の鶴岡政男、イラストライターの長新太、太田大八、作曲家の浜口倉之助、などが一緒にいた。中でも鶴岡政男さんとは心底から仲が良かった。鶴岡さんは無頼派であったが永田力さんは一歩退いて冷静に判断する理性派であった。
22歳の新入社員には決して覗き込めない知的文化人の遊び場で別の世界であった。私はカウンターの遠くから見つめているだけの出会いであった。
ロマンチストな社員は、それからすぐに会社を辞めた。永田画伯とラフマニノフを私に引き合わせることが彼の役割のようであった。
それから20年、私が独立をしたことで永田画伯と再会することになる。「二人はちょっとおかしい関係じゃないの?」と、水上勉夫人から冷やかされるほどに親密になった。二人で韓国の古都慶州を旅したし、沖縄にも行った。水上夫人や山田耕作の娘さんなどと一緒に熊本へも行った。
ある時、画伯が長崎だと聴いて「私の父方もそうです。諫早の近く有喜という小さな村落で生まれました。長崎県士族服部惣右衛門という長崎県発行の証明書がありますから間違いないでしょう。でもどこの藩かはわかりません」と、言った。
画伯は、諫早なら先祖は島原藩かもしれないと言ってすぐに調べてくれた。
それから、すぐに電話が入り、あなたの先祖は島原藩だ。すぐに島原へ行こうと画伯は言った。
本光寺は島原松平藩の菩提寺である。そこで幕末時代の先祖にまつわる一部始終を住職は語ってくれた。それから画伯は服部氏(うじ)と呼ぶようになった。永田画伯も島原藩であった。松平黎明会をつくろうと話は盛り上がり、脚本家の市川森一も交えて盛り上がったが、私は乗り気ではなかった。
昨年電話があって二人で話がしたいから来てくれないかと請われた。
画伯はシベリア抑留の話を私にした。「毎日死んでね。死ぬとみんなが着ている服を剥ぎ取るんだ。でもふんどしは誰も取らなかったな。冬の外は氷点下40度近いから穴を掘ろうにも凍りついた土はつるはしをはじいて穴は掘れないんだ。そこでスコップで背骨を折って二つに畳んでね。死体を埋めたという状態ではなかった。翌朝には狼に食い荒らされていてね」
「日本政府は敗戦を終戦と言い換えた。終戦ならなぜ政府は兵隊を連れ戻しに来ないのか。私は引き揚げ船の中でその話をした。中に兵隊の格好をしたスパイがいたんだね。引き上げるとすぐ東京の占領本部から出頭命令が来て共産主義にかぶれていないかの尋問を受けたのだ。
私は金輪際日本という国を、政府を信用できなくなった。」
画家、香月泰男はシベリア抑留の経験を描いたが、永田力が描いたのはシベリアのもう一つの上位概念である人間の多面性であった。
私はいつも永田画伯の絵に囲まれて活きている。生きているのではなく活きている。
永田画伯と会っていない時でも万物となって私に満ちている。一枚の絵を通していつも語りかける。
もう一つの自分と見つめ合いなさいと。
仕事が一段落したら電話を掛けよう。
永田先生、お元気ですか?