蚊なんていう奴ではない。左目水晶体の中で暴れまくっているのは黒雲を引き連れた黒龍だ。
巨大な飛蚊症が発症した翌日、親しい友を誘って北鎌倉に行った。またもいつものコースで、円覚寺から東慶寺を見て北鎌倉へ戻るコースにした。
私は大きな寺は権威と権力の象徴のようで好きではない。そんなわけで、円覚寺に入山するものの心はそぞろで、東慶寺にたどり着くとホッとして、満足してしまう。
この寺は。駆け込み寺であった。縁切り寺は東慶寺だけではない。全国至る所にあった。赤坂見附の豊川稲荷も江戸の駆け込み寺であった。駆け込み寺は、法によって権限を与えられていた。
この日は、梅の花に誘われて若い二人が東慶寺を睦まじく散策していた。恋をしている二人が手をしっかりと握り締めながら半分呆然とした笑顔で、梅木の下を歩いている。
よりによって縁切り寺に来なくてもよいと思うのは下衆の極みである。恋する二人に意味があるのはたった今の時だけである。
さだまさし作詞作曲の「縁切り寺」には、こんな一節がある。東慶寺を舞台にした出会いと別れの詩だ。断片的に切り抜いた。
「今日鎌倉へ行って来ました 二人で初めて歩いた町へ」
「ちょうどこの寺の山門前で、きみは突然に泣き出して、お願い、ここだけは 止して あなたとの糸がもし切れたなら 生きてゆけない」
「君は今頃 幸せでしょうか 人の縁とは 不思議なもので そんな君から 別れの言葉 あれから三年 縁切寺」
人生は毎日が旅の寄り道。出会いと別れだけが具体的なものだ。
いつでも、私の関心は東慶寺の墓所である。普通、墓所は寺院の裏手にあるものだが、東慶寺は山門からほぼ直線状の斜面にある。
これは作家田村俊子の墓。いい墓だなあと思う。今日は3月で木々は冬樹だが、新緑のころ、東慶寺の墓所は森の中にある。
この隣にあるのが、川田家の墓。これって川田順の墓かも知れませんねと友人と二人で語っていたが、やはりそうであった。老いらくの恋で有名な歌人川田順は住友グループのトップになると言われていた経済人であったが、同時に芸術院会員の歌人であった。27歳下の中川俊子と出会ったのは63歳のときである。
二人は逢瀬を重ねる恋に落ちる。とはいえ人妻である俊子との幸せな関係は一筋縄では解けない。やがて夫に知る身となり、川田は親しい編集者に遺書を託し、自殺を図る。けれども死ぬことはできず、編集者は遺書を公開してしまう。これが「老いらくの恋事件」である。
プライドも高く気品ある川田は、世間から興味の対象として扱われる。しかし二人は出会ったことが定めであったと覚悟し、俊子は大学教授の夫と離縁し、川田順と結ばれる。
葉が落ちて風景が変わった墓所で私は、墓守の女性に田村さんの墓はどこになりますかと訊いた。
彼女は、満州に行った小説家の田村さんですかと、答えを返した。薄い土色の墓所に赤い花が一輪手向けられていた。
明治初期の作家に追いかけるファンがいるのかと不思議であった。かくいう私も青空文庫で「田村俊子の木乃伊(みいら)の口紅をダウンロードした。
鎌倉駅は江の島に向かう人たちも含めて喧騒としているけれど。一つ手前の北鎌倉駅は、鎌倉の谷間にあってひっそりと佇んでいるようだ。旅人も古寺巡礼の人々に限られている。松本静張の事件ものに出てくる田舎の停車場のようだ。
いずれにしても、これが定めであるということは人生にはない。人生はもっと自由なのだ。それでも定めがあるとすれば、覚悟を決めることである。人間の明日など一輪の花と似ておぼろなものだ。しかし、川田順のように、住友財閥の総帥(そうすい)に推挙されるほどの人が、老いて人妻と恋に落ち、京都法然院にある実家の墓前で、死に損なって老いらくの恋が世間に暴露され、この紳士は地べたに這うほどの苦しみから覚悟を決め、起き上がったのは、深い精神性を持った人生とは何ぞやとの思惟の結末であったか、ただ開き直ったかは知らない。
後日、鎌倉東慶寺にある順の墓は分骨であることを調べた。順は、法然院の川田家墓に、前妻和子と共に眠っている。俊子は98歳まで生きて、2008年2月20日に逝去。東慶寺に順の分骨と共に眠っている。分骨とはと、老いぼれの恋の結末に指を向けてはいけない。思いの丈が詰まっているから、そこにわが身を割いてまでして骨を分け、そこに残したのである。
いずれにしても・・・、北鎌倉は、春であった。