昨日は私の大好きな稲富さんが、10年ぶりに部下の橋爪さんを連れて来てくれた。
お土産が、なんと木村壮八画伯の東京繁盛記。珍品書というより文章が加わった画集で、ずしりと重い。この重厚な本を抱えて汐留から春日まで来てくれたのだから、昭和の小説に出てくる主人公のような人である。
それから飲みに出ようということになって、湯島にフクロウを置いた小料理屋さんがあるからそこに行きましょうとなった。その店は知ってますよ。私はとっさに答えた。
え?なぜ知っているの?稲富さんは私に訊く。
羽黒洞の木村品子さんに連れて行ってもらって・・・。
え?品子さんを何で知っているの?
木村品子さんは高名な画商木村東介の娘であり、羽黒洞の女主人である。木村東介さんは長谷川利行を育て仙厓を広めた人で有名な画商だ。ジョンレノンに浮世絵を教えて人でもあり、それはそれは様々な画家を育てた。
一、二回絵を展示し取り扱って育てたという育て方ではない。自分の財産をなげうち、画家が描いた絵を全部買い取るという、徹底した育て方である。
それなら品子さんの所へ一緒にいきましょうということになり、嵐のような風雨の中、3人で湯島までタクシーを飛ばした。品子さんも稲富さんと私が一緒に画廊に入ってきた姿を見て奇縁ですねと驚いた。
稲富さんは、私とよく似ているから好きなのだ。すぐにホワイトボードに絵を描いて説明をするし、ぱっと閃くし、お土産に木村壮八の画集を持ってきてくれるなんて、なんて似ているのだろうかと思う。
先週は沖縄から友人が甥を連れて遊びに来た。甥っ子は遺伝子工学の修士号まで取得したが、籠ってやる仕事が向かないと、別業界に進んでしまったそうだ。
先週は勤務時代の先輩とも会食をした。人には関係性という名の思い出がぶら下がっているから、人それぞれに響き合う音が違う。
豊穣の海は三島由紀夫が輪廻転生を描いた四部作の長編小説だ。若いころ、この小説に没頭した時期があった。
圧巻は「天人五衰」の末尾であった。
輪廻転生など私の世界観には存在するべくもないのだが、久しぶりに会う友と昨日あったかのように振る舞えるのは、輪廻転生があって、私はいま別次元で友と向かい合っているのかと錯覚してしまう。
天人五衰の末尾は、数々の議論を呼んだ有名な一節なのだが、いささか乱暴な括りで原稿を終えてしまう。「春の雪」で清顕の逢瀬を重ね、堕胎したあと、聡子は剃髪し尼となる。その聡子が確かに私は俗世では聡子と申しておりましたが清顕さんは知りません。それは、人間違えではないでしょうかというのである。
この原稿が脱稿した翌日、三島は割腹自殺をする。
だから死に急ぐあまり、曖昧な表現をしたのだという意見もある。確かにそれも正しい。けれども輪廻転生が世界観として存在しているのならこの世は夢幻で、輪廻転生はあると、文学で書き綴ることはできる。
私は時折、そんな世界があっても不思議はないと思うようになることがある。大好きな稲富さんとフクロウに囲まれた小部屋で昨日会ったと同じように何一つ変わらず話をしている自分と、天井からこの姿を眺めているもう一つの自分の目があって、視点が交差すると、ふと輪廻転生をしたのではないかと思うのである。、