こんな大きな鮎の塩焼きが出てきた。5月にこれほどのサイズは天然物ではありえず、養殖の鮎だ。
私は鮎を上手に食べる名人だ。とはいえ上手に食べた鮎の撮影を忘れてしまったので、写真はない。
日本の食文化は世界一だ。バラエティに富み、うま味に溢れている。中でも北海道の昆布だしと日本産鰹節だしの組み合わせは絶品で、世界にない料理の味をつくっている。
正直言って天然と養殖では味は違う。この鮎も早めに育てるために工夫を凝らしているだろう。骨抜きをして頭から皮ごとかぶりついたのだが、身のしまり方が柔らかで、皮は厚くちょっと残念であった。
昨日は学生時代のゼミナールメンバーと年に一回の集まりがあり参加した。
なんと50回になる。とは50年続いている会だ。ひとえに滅私奉公してくれている幹事さんの努力なのだ。
ゼミナールを担当した教授は21年前に65歳で逝去している。K教授をいまでも慕って皆が集まる。
私は、K教授に本当に可愛がられた。生前、連絡があり、マレイシアにいる息子の所に行きたいのだが、君の予定は?と訊ねられ、クアランプール、ペナン、そしてシンガポールの旅にお供したこともある。
一緒に沖縄へ旅した時に飲み込むと喉の奥が痛いと打ち明けられた。私は築地を勧めたが、君が入院していた日赤がいいと、癌という名前が付く病院を嫌った。
那覇の料理屋で、沖縄三味線の音色に交じって君も一緒に行ってくれるかい?というか細い声が聞こえてきた。
私は青山に事務所があったので日本赤十字病院は近く、時間がとれればお見舞いに行っていた。
ある時、社員旅行で東南アジアの旅から踊ってきた朝、成田から自宅へ電話をするとK先生が亡くなった。ぎりぎりまで出棺を待つからと、言付けを聴いた私は旅行着のままK教授の自宅へ直行した。
すっかり小さくなってしまった顔を今でも思い出す。水分が抜けて両手の親指と人差し指を使って円を描けば、その中にすっぽり収まってしまうほどの小さな顔になっていた。
教え子は私一人であった。棺にくぎを打つ行事が出棺前にある。私は用意していた石を使って釘の頭を思い切り叩いた。棺全体が思い切り揺れ、K教授の遺体もぐらぐら揺れた。
それから21年が経つ。参加者の誰もがK教授より歳を経た。誰もが仕事をしていた。かつて、あるものは経営者であり、あるものは会社務めであった。かつて辣腕を奮っていた企業戦士は、公園墓地の清掃業務をしていると言っていた。それは素晴らしいと私は真面目な顔をして応えた。
いまは、墓を建てずに共同墓地に初めから入る遺骨が多く、共同墓地は20年で遺骨は処分されますと説明があった。どう処分されるかは訊かなかった。
出席者の半数は近況報告で自分が抱える病気の話をしていた。残る人生を大切に生きたいというものもいた。まだ山登りをしている人の話はおもしろかった。私はM6でドライブをしてきた時の話をした。あと13年後、老後になったら自然ともっと向き合う生活をすると話した。私の老後は85歳からで、きっとその時期になったら老後は90歳からだと思うだろうと付け加えた。
K教授もそうであった。私が教員生活をやめたらたくさんの教え子を訪ねて旅ができる。教員特権だと言っていた。しかし明日のことなど誰も分からない。分からないから明日も必ず生きていると信じて、死からできるだけ遠ざかるような生活をして、一日を大切に生きることが必要なのだ。
この鮎は会の前日に仕事先の部長と食べたものだ。私は頭からかぶりついて大骨以外は全部を食べた。魚は人間より豊かな感情を持っていると信じている私は、たとえ養殖物でも私が食するために命を捧げてくれたのだから粗末に扱ってはいけないと思う。
かぶりついてから、やっぱり天然物との差別をするのはよくないと思いつつも、今日もこうして生きている歓びを鮎の身肉に置き換えて噛みしめているのであった。