極寒の地。冬になれば夜の気温は-40度を超えて下がった。満州で終戦を迎えた日本兵はソ連軍の侵攻を受けて投降し、皆シベリアに連れて行かれシベリア開発の労働者として抑留生活を送った。
生前、永田力画伯は抑留生活の話をしたがらなかった。聴いても答えず話を逸らした。重い口がポツリと開いたのは二年前のことであった。
みんな死んでいくんだ。死ぬと収容されている元日本兵が、まるで餓鬼が死体をむさぼるように衣服をはがしていくんだ。それだけ寒かったんだ。でも死体のふんどしだけはとらなかった。皆で死体を引きづって共同墓地としていた辺りに穴を掘るんだけど、地面は凍土でスコップもシャベルも通らない。穴を掘るのではなくて儀式として死体の上に掛ける凍土を準備するだけだった。
鯵の干物の背骨を折るように、シャベルで背骨を折って体を小さくして、削り取った凍土のかけらを体に掛けて、それで終わりだ。翌朝、労働で通ると遺体はない。狼などが食べてしまったんだろう。
私は、永田力画伯の遺作から、わずか数秒で直感的にこの絵を選んで所望した。はじめ・・・晩年の作品かと思っていた。キャンバスではなくベニヤ板に描いた油彩である。ご子息が自宅に届けてくれた絵を見ると1965年と記されてあった。画伯が44歳の時である。
シベリアの抑留生活を描いた有名な画伯が香月泰男氏である。
満州、中国で敗戦を迎えた日本兵士たちは極寒の地での少ない食料とわずかな休息時間だけで、モスクワが机上で作成したノルマによる過酷なシベリア鉄道敷設の強制重労働を強いられていた。
香月氏は、フレームの中にシベリアの大自然の中で、極限に追い込まれた人間の絶望と希望を高いデザイン力でまとめている。香月泰男氏の作品を知らない人は検索エンジンで香月泰男→画像で見ることができる。
永田画伯は、シベリアの絵を描いていない。描かなかったのではなく描けなかったのだ。
この写真は撮影角度を変えたものだ。絵はやや立体的になる。カメラがiPhoneで蛍光灯による照明なので画面は赤みがかっている。実際にはこれほどの赤みではないのだがベースにはいろいろな色が敷いてあることが分かる。
「シベリアの月」は、私が勝手につけたものだ。永田画伯が付けたならきっとこうつけるに違いないと自信を持って決めた。拘留されていた収容所に極寒の月が照らしている。画家は俯瞰的に風景を抽象画とも思えるタッチで具象化している。画面に月は描かれていない。月光で輝く収容所を描いている。
私の見え方と永田画伯の見え方は違う。私はこの絵から引き出せるものはすべて想像だが、永田画伯が引き出すものは、抑留経験である。
描いてから今年はちょうど50年になる。画伯はこの絵を一度もフレームの中にはめ込まなかった。売り絵ではないということだ。私はこの絵を背負うことができるのかと反芻している。
台風が過ぎ、雨が止んだらこの絵を世界堂に持って行き、フレームに収めよう。銀色がいい。金属のフレームが似合うだろう。
明日は永田画伯の一周忌だ。振り返れば永田力画伯とは奇しき縁で結ばれている。
季節は巡り人の感じ方は変わっていく。私も終わりがある身だ。終わりがある以上、悔いない生き方を選ぼう。