週末2日間を連休したのは数年ぶりだ。引き留めたのは急な暑さ。前の週が肌寒いくらい涼しかったので、この暑さはさすがに戸惑う。そこで自宅に籠もり冷房をいれて、あまり健康的ではない環境だが休養に努めた。
途中、墓掃除に出かけた。お盆が来るのに草茫々では近隣に悪いと思ったからだ。私は雑草だなんていうのはおかしい、どの草にも名前が付いている。暑い最中に草を抜いて、売りものの花を生けるなんて実におかしい光景だ。草だって花を咲かせる。それが人間にとって美しいと思わないだけだ。雑草が生えていればそれでいいのではないかと思うがこういう考えは屁理屈らしい。
人間は死後もお金が掛かる。葬式代ではない。埋葬されてからもだ。こんな生き物はほかにいない。人間だけの仕業だ。墓地建築費にお金が掛かる。管理費に掃除が掛かる。維持費にお金が掛かる。坊さんにもお金が掛かる。死後に遺族がこんなにお金が掛かるのはおかしいではないかと私は思う。
死はビジネスの対象だ。それも永遠にだ。私は死のビジネスに添って墓掃除に出向く。誰一人として感謝されることもない。故人は燃やされて骨の一部が壷に納められているだけだ。本人は永遠の眠りで、何のために生まれてきたのかといえば自分のDNAを残すためだけだ。DNAも骨も感謝をしないから、墓掃除に出かける私もうれしくも何もない。
夏の日に照りつけながら、草を抜き、墓石を洗い、花を活けて、線香を燃やし、般若心経で一番ありがたい一節を唱えて、這う這うの体で、太陽にあたり熱せられているクルマに戻り、エアコンを最大にして熱気を外にだし、シートクーラーは付いていないのかと思いながら、広大な霊園を後にした。
けれどもこのような親不幸思想を持った者は、どこかで思い切って何かを捨てているのである。多くの人が問題意識を持たずに墓参りをしているようにすれば心清く、人生を生きられるけど、私のように、社会常識の不条理に反応していろいろなものを捨ててしまっていると、その分だけ心の中に抱きしめるものも増えてくることを承知して生きなければならないのだ。
私は墓参りに行かない分だけ父母のことを思い出す。すると父母は活き活きとして私の心の中で生きていられる。この実感は生きている実感だ。一番大切にしなければならない実感だ。
霊園から出る前に事務所に行って公共墓地のパンフレットと墓を閉める費用を聴いてびっくりした。
おいおい、墓を閉めるのになぜそんなにお金が掛かるんだ。公共墓地になぜそんなにお金が掛かるんだ。子孫は墓地地獄だ。
ところが東京近郊の墓地は広がり続けている。派手に募集が行われ小さな面積わずか2㎡で数百万円+墓石代と高い。
やがて火葬場で、残骨なし焼却というメニューができて何も持ち帰らないようにすればいいと思う。死んだ人は思い出してくれた人の心の中で生き続けることができるのだ。
家に戻るとシャワーを浴びて、冷えた桃を皮ごとかじり、それからApple Musicを聴いた。
「日本では音楽を聴く行為は終わりだな」というのが結論だ。CDやデータで音楽を聴く時代は終わったという意味だ。引き金を引いたのがストリーミングだ。世の中は立体的な構造に進んでいる。音楽と踊り。CD、MP3からライブへ。
私は3ケ月の無料期間を終えたら続けない。お金の問題ではない。音楽は辞書ではない。いままで生きて思い出ある曲や好きな曲を愉しむのが好きだ。3000万曲から一曲を絞り出す機会は、ほぼない。
西洋音楽と日本音楽とでは生い立ちが違う。
人の心の感じ方が大きく動いている。70歳を超えた私の年齢で墓及び死後の宗教不要論は非常識かもしれないが若い世代では当たり前になっている。時代の変化ではない。人の心の変化なのだ。
久々の連休で英気を養った。人の心は変化する。変化すれば意識が変わる。意識が変われば行動が変わる。人々の行動が変われば・・・。そのうち死後ビジネスは衰退産業になる。死んでお終い。それを知った時に人々の意識が変わり行動が変わる。こうして世の中が変わっていく。久々の週休で考えたことの一部を日記に認めた次第である。