8月最後の日。子供たちは夏休みに終わりを告げて新学期に向かう。大人たちは、夏の区切りがつく日だろう。これで暑い夏は峠を越したと思う日である。
この日に生まれた人にとっては一歳年齢が増える日でもある。私にとっても何かが終わった日である。何が終わったのか、何が始まるのかは定かではない。
今年の8月は冷房病と風邪のハイブリット病を患って、大風邪に襲われた夏であった。しかしその夏も区切りの日が来た。それが今日8月31日だ。
今年は準備の夏であった。本は4冊分くらいの原稿量を書いて一冊分ができた。来週から二冊目の原稿に取り掛かる。私には人生の目標がある。だから風邪をひこうと、胸が苦しくなろうと前を向いて強く進むことができる。
目標も夢も希望もなかったらどうなるのだろうと思う。
上野公園にある国立西洋美術館にはロダンの地獄の門がある。
門の前に立つと、この門をくぐるものは一切の希望を捨てよと書いてある。目標、希望、夢を失った人たちは地獄の門から地獄界に入り込んだ人と同じことということになる。
しかしキリスト教には煉獄が用意されている。地獄にも天国にも行けない人の群れ。この人たちは煉獄に落ちる。私には、時に政治家がキリスト教を使って多民族を束ねた、無知の人々をだまして束ねたと思う。
一方、中国で生まれた禅宗は個人が哲学することで一定の境地に達する宗教であると思う。
日本での禅宗中興の祖である白隠禅師の一行書「南無地獄大菩薩」は、キリスト教を越えている。地獄を一定の住処として南無と唱えると書いてある。
禅問答は面白い。
塵を払って仏を見る時如何という禅問答がある。邪念を払って見た、悟りを開いて見た仏の姿とは何かという問いだ。答えが良い。仏もまた塵。つまりは塵だ埃だ、仏だとそんなことに掴まってどうするのだと喝破しているのだ。
犬は死んだら仏になれるのかという禅問答もある。狗子に還って仏性有や無しや?答えは無の一言。有無の無ではない。仏もまた塵と同じ意味だ。
目標も夢の希望もなかったら人間はどうなるのかと禅問答があったなら答えるか。
有名な問答がある。ある高僧が畑仕事をしていた。旅の坊主が仏に通じる道はどの道かと問うた。高僧はこの鎌はよく切れるのうと答えた。
いま一時一所以外に、今の一瞬以外に真実はないということだ。一瞬の積み重ねが仏に通じる道を歩いていることなのだという。
ジョブズは、自分は富を得たが人間としては、決して幸福ではなかった。親しい友はいなかったと述懐している。ある程度富を稼いだら、好きなことをやれ。それが人間の幸福だと言っている。
私は、幸福を求めてはいない。目標に近づくことを求めている。近づくためにわからないことを見つけ、知るために模索し、探求することを楽しんでいる。
今日は8月最後の日。31日だ。もしも人が地獄に落ちるのであれば、それでも私は希望を捨てたりしない。天国も地獄も人間が作り上げた概念だ。そんなところはどこにも有りはしない。あるとすれば天国と地獄を知っている人間の脳内にあるだけだ。
この鎌はよく切れる。この一瞬に生きていこう。人間はそれしか生きられないのだから。