冬至が過ぎて太陽が北半球に戻るコースに入り始めた。まだ日が沈まない夕暮れに、庭に出て空を見上げた。
東から西に向かって夜のとばりが押し寄せている。あたりの空気を黄色に染めていたエゴノキは、丸坊主になっている。植木職人が鋏を入れた枝は短く、幹を晒している。二本のハナミズキは、のびのびと枝を広げている。広葉樹は、葉を落とすことで体力の消耗を防ぎ、冬を越す。
東の空には、月令8.9の小潮月が太陽光を反射している。月はこれから満月に向かって進んでいく。
宇宙は遥か遠くにあるものと思いがちだが、私たちは宇宙と接して生きている。だから私たちは宇宙の一員であり、宇宙そのものでもある。
「生者必滅 定者定離」は、大般涅槃経に流れる思想である。釈迦が入滅後、弟子たちによって釈迦の遺言をまとめたものが涅槃経だ。禅宗では大般涅槃経を重要視して三経の一つにしている。生きる者は必ず滅び、会った者は必ず離れるは宇宙の真理である。
これらは平家物語の根底に流れる思想である。私が平家物語を知った高校生の頃から物語に登場する祇王妓女や小督や、建礼門院の憐れな物語に心を打たれたのは、私自身がもののあわれを好む体質を持っていたからかもしれない。もしくは植物と生活を共にした日本民族が陥っている静的思考によるものかもしれない。
だが、わが庭の空を写した写真を見ると大事なことが隠されていることに気付く。西の空には太陽が沈んでいるが東には月が昇っているではないか。「沈む日を追うことなかれ。出る月を待つべし」の思想がiPhoneで撮影した上の写真に隠されているのであった。
ふと庭の西側に目を落とすと山茶花(さざんか)が今を盛りと咲いている。
庭の東側には椿の花が開花の準備を整えている。山茶花が散ると来年3月頃まで椿がこの世のすべてを託して咲き誇る。
この庭には連綿とした命が輝いているではないか。動的に思考すれば生命は循環し不滅であると整理できるではないか。
私は今年一年、オフィスに付属している個人庭を眺めて、自然から何かを学びたいと思っていた。偶然にもオフィスが春日の高台に建っていて、そのうえ、南が180度解放されて東から西まで見渡せる場所にあった。南側にあるマンションでは6階の高さに相当している。だから年間にわたって太陽の運行が手に取るように見え、沈む場所の変化までが手に取るようにわかった。気が付けば地球の公転自転を肌で感じて生きていたことになる。
その結果、私が考える軽薄な悟りもどきの生者必滅は、何ら役にもためにもならず、むしろ、生命が輝く喜び、連綿とつながっている歓びを感じて生きることの方がはるかに自分自身のためになると気付いた次第である。