新年の支度は何もしない新年を迎えた。正月料理も買わない、作らない。紅白歌合戦も見ない。そもそもテレビは見ない。餅も買わない。
私は30日まで原稿を書いて、31日は自分の部屋をクリーニング。夜は普段通りの食事をしてショパンノクターンとラフマニノフをApple Musicで聴いて時間を過ごした。
初詣もしない。テレビも見ない。新聞も見ない。いつも通りの食事をしてあとはYou tubeでいろいろな人の話を聴いた。小室直樹、カズオイシグロ、宮台真司、この時間が一番楽しかった。
正月行事をしないと、一年間が終わって新たな一年が始まるという気がしないから不思議だ。そればかりか、時間が直線で流れていることが肌で感じるくらいよくわかるから不思議だ。
正月行事をしない我が家に二人の娘が産んだ子供たち三人が一堂に集った。
中学三年生の女子は、勉強が好きで好きでたまらない子である。毎日予習復習を三回まわしするという意志の強さで、冬休みも塾に行きたいとせがんで勉強をしている子である。高校生になったらロックバンドでベースをやるそうである。
小学校五年生の男子は、偏差値が高くて私にはとても太刀打ちできない。去年はアインシュタインの法則で議論を吹っ掛けられたし、今年はいきなり哲学的な視点で死ぬことについてどう定義するかと吹っ掛けてきた。2月にはショパンのノクターン20番を演奏するので時間があったら聴きに来て欲しいと請われた。昔は神童、今、普通の人なんてのはそこら中にゴロゴロいるからな。
同じく小学校五年生の女子は、欅坂と乃木坂をダウンロードして欲しいとiPhoneを持ってきた。
この子は、いつでも相手の立場になって考える子なのでクラスの誰からも好かれているらしい。日本語が少ししかわからない外国人の子供がクラスに編入するとお世話役を仰せつかる。すると親身になって世話をするのでお母さんは感謝の意を学校に伝えるらしい。
今は一堂に集まって同じ船に乗っているようだが、実は一人ひとりが自分だけの小舟に乗っている。この三艘の小舟は、10年後、20年後に、誰とどこをどう流れているかと思いながら私は一人ひとりの顔を見つめている。
家の中はにぎやかになり、どこからでてきたのか正月らしい食卓になり、やがて、嵐が過ぎたような静けさが戻る。私は某呆然として立ち尽し後ろを振り向いている。私が生きてきた経験の重さに押し流されまいと杭に掴まりながら流れる先を振り返っている。流れは音を立てて闇の中に吸い込まれている。
私は流れの一瞬に立っている。今日は正月。古くて新しいお正月。