私のとって今年は別れの年になった。私の人生にとっての一ページに必ず登場してきた人たちが数名、命の火を消した。いくら探しても、彼が暮らしていた職場を訪ねても、どこに、行ったのか、それとも逝ってしまったのかを訊ねても探してもそこにはいない。
だが、かつて彼らがこの世にいて何かに情熱を燃やして、生存していたことは確かだ。
確かなものが突然に命を失い、この世からカタチを消し、残った骨を素日指して、これが彼の生きた証だと言ったところで、彼が本物の彼であったのかを識別できない骨は、彼ではない。
やがて彼に追いついて、それから50年も経てば、彼と私が毎日のように会って酒を飲み交わしていたことなんて誰が知っているのだろうか。認識できるのは彼と私が生きている時間だけであった。
三年前に、工事で入った職人さんたちは、たとえ植物でも命を守るすべて知らずに、庭の苔を完全に踏み壊してしまった。私はその姿を見て嘆き、瀕死に命を灯している残り苔に水を与えて続けていた。それを見ていた管理人は、ほっておけばまた苔は生えてきますよと慰めの言葉を掛けていた。三年後の今日、苔は前より大きく面積を広げた。
管理人は、ほら戻ってきたでしょうと言ったが、私は戻ってきちゃいませんよ。前の苔はあれで死に、姿を消したのです。増えてきたのは新しい命ですと返した。
その、苔たちの真上に、今年最後の椿が一輪、首を落とした。
振り向けば死屍累々と花首が落ちている。
私は哀しんでばかりはいられない。人生を悲哀的に感じても時間が経過するだけで事態は何も変わらない。事態が変わらないまま時間が経過することが一番哀しいことだと早く気づかなければならないのだ、後ろを振り向いて哀しんで、時間が過ぎて我に返れば自分の花首が落下する直前であったことに気づくかもしれない。それでは遅すぎるのだ。
考えよう。そして行動しよう。それが生きている唯一の証なのだ。