50年以上も幹事をやっていただいたT氏が、できなくなったと公表し新しい幹事を募った。ところがなり手がいないので、私が手を挙げた。
しかし、コロナパンデミックスが収まらず、幹事を受けて4年目になるがゼミナール会は再開できていない。
ゼミナール会のコースは、教授が眠る文京区の寺院の前で集合し、住職にお経をあげてもらって、墓碑に手を合わせ、それから小料理屋の三階で部屋を借り切って一次会、次に近くの店で二次会をやって終わりにする古典的な会である。
参加者は最大で二十名であったが、今は数人が欠けている。
教授の命日が5月20日であったので、毎年この日と決めていた。
遠くは、北海道、四国からも集まる。もちろん教授が生前のころから続いていた。
私が教授を誘って沖縄旅行をした。安里にある琉球料理店で、教授はのどの痛みを訴えた。
私は直感的に食道がんを意識した。東京に戻ったらすぐに病院へ行きましょうと言った。やはり食道がんであった。
教授は、服部君が入院していた病院がいいと言い、日本赤十字病院での手術であった。
私はオフィスが当時は青山にあったので、日赤病院は近くであり、空き時間を見つけては、お見舞いに出かけた。ゼミナール会には、入院中のベッドを抜け出して参加してくださった。
教授は、平成6年(1994年)還らぬ人となった。いまから28年前のことである。
私は、ゼミナール会のメンバーの幹事になってから専用の封筒と便箋をつくった。そして不定期に短信を送って近況を知らせている。
今年の秋には絶対やろう、と思ったが、私は地軸の傾きを想像に加えていなかった。
教授の命日、5月20日は暖かく昼時間が長くてすがすがしい時だが、ひそかに予定していた10月20日は、日は早く落ち、夕方になれば冷風が吹き付ける頃になる。
今年もできなかった。まだ3か月あまり残っているが、そう決断した。