昨日、大切にしていたものを友人に贈呈した。これだけは手離したくないリストがつくったら、記載しただろうという大事にしていたものであった。ただ、所有しているだけで使用はしていなかった。あげてしまったら心残りがあるかなと思った。ところが心はものから解放されて一つだけラクになった。
手離したくないものとは、逆から見ればものに縛られていることでもある。手放した後の解放感は不思議な感じがしてならなかった。
ものに執着をすることは楽しみの一つだ。コレクターはその極めである。私も一時期、蝶を集めたことがあったがとてもコレクターとはいえるものではない。いまは蝶を眺めるのが好きで、若い頃の趣味がいまにつながっているという歓びはあるが、蝶に対する執着ではない。
ものに執着をするのは心(脳)の仕事だ。好きになったものに執着をするのは、子孫繁栄・子育ての本能に支配されたものであるかもしれない。私は子どもが巣立ったから、執着心が薄れてきたのかもしれない。
エリザベスティラーという大女優は8回の結婚をした。82歳の時に9回目の結婚かとうわさになったが否定した。エリザベスティラーの死後、宝飾品がオークションにかけられた。きっと死ぬまで大事にした宝飾品であろうと思った。
ゴッホを購入した斉藤さんは、死んだらゴッホの絵も棺おけに入れて一緒に燃やしてくれと発言して世界中から大ひんしゅくを買った。
たくさんの遺品はオークションにかけられて引き継がれていくだろうが、我々凡人の遺品は清掃業者によって運ばれ去ってしまうのが落ちだ。だから執着あるものは、ものを理解する人に引き渡してしまう方がよいのである。
ものを手離すことで解放される体験をしたことは、うれしいことであった。そしてこのことは私の試行であった。美を所有しないで楽しむことだ。所有こそが困難の源になる。その思想の試行であった。
「虞や虞や 汝をいかにせん」は、劉邦と戦いを演じた項羽が読んだ詩の一節である。虞は項羽の愛妻で絶世の美女であった。四面を敵に囲まれ項羽はこの歌を歌い、虞は舞い終わって自殺したという。