画家から電話が入った。打ち合わせをするので土曜日の予定はどうかという電話だ。
これまでに何度も同様な電話が入る。私はお元気なうちに画家とたくさん会話をしたいのでもちろん大丈夫ですと返事をする。
画家は孤独ではない。たくさんのファンというべき人たちに囲まれているし、食事世話をしている人もいる。けれども電話をいただいて、「打ち合わせをするので話をリードしてほしい。5人くらいは集まる」と言う。でもその話は実現しない。今日はどなたが見えるのですかというと「誰にも声をかけていないよ」とうそぶく。画家は私と話をしたいのだ。私も話をしたいからお伺いし、だいたいは夕食まで一緒にしてそれで別れるわけである。
画家は人一番さみしがり屋である。人前ではウイットに富んだ会話を連発していても、一人になっていると憔悴しきった顔になる。昔から画家とは旅行をしたが、とにかくさみしがり屋さんである。
ターシャのように自然と一緒に暮らしている人は、自然と語り合うことができる。私はそれで決して孤独にはならないと思う。
山は動かないけれど季節ごとに景色を変える。地球の自転に合わせて刻々と色彩を変える。植物は生育し、そして枯れる。どう見ても死にみえるけれど死ではなく、また春に復活する。こういう姿を見ていると孤独に浸っているまはなく、毎日が生き生きとしてくるはずだ。
孤独なのは自分が宇宙のなかに、ともに生きていることに気が付かないからだ。だから死は怖い。ターシャはきっと枯れるように死んでいったのだと思うけれど、私はこの死を単なる死として孤独とか悲しいとかで語るのはおかしいと思う。
宇宙はあらゆる力を使って生物の誕生に手助けをし、これまたあらゆる力を使って生き抜けるように手助けをし、また宇宙はあらゆる力を使って生物を殺そうと手助けをしている。人間は宇宙がもたらす真実に気が付かないと、いたずらに病を恐れ、死を恐れることになる。宇宙とは言うまでもなく自然の別名である。
今日、画家と電話で話した。明日はどなたがいらっしゃるのですか。私の問いに誰も声を掛けていないよと画家は答えた。え!打ち合わせがあって5人の方が集まるのではないですかと私は訊かなかった。ああそうですか。わかりました。私は答えた。明日一時ね。約束は1時半であったが早く来てくれということであった。
森羅万象は誕生し、生き抜き、そして死んでいく。そしてまた再生をする。この繰り返しに過ぎない。
だから人間は精一杯に、生きていかなければならないのである。しかし、生き抜く力は息抜く力とバランスで成り立っていることを忘れると自然はあらゆる力を使って生き抜くことに手助けすることをやめて、あらゆる力を使って生物を殺すことに専念することになるのである。