写真 Copyrigets 軽井沢草花館 ゆうすげ日記 http://kusabanakan.sblo.jp/article/72965806.html
皇后陛下が育てたゆうすげの花が軽井沢の植物園に寄贈された。植物園はゆうすげからたくさんの子孫を育てた。
写真は子孫のゆうすげである。
ゆふすげびと
立原道造
かなしみではなかつた日のながれる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた、
それはひとつの花の名であつた
それは黄いろの淡いあはい花だつた、
僕はなんにも知つてはゐなかつた
なにかを知りたく うつとりしてゐた、
そしてときどき思ふのだが一体なにを
昨日の風は鳴つてゐた、林を透いた青空に
かうばしい さびしい光のまんなかに
あの叢に咲いてゐた、そうしてけふもその花は
思ひなしだか 悔ゐのやうに――。
しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔ゐなく去らせたほどに!
ここで道造が言っている「あなた」は、関鮎子さんであったと思う。鮎子は、追分にある旅館永楽屋の孫娘であった。鮎子の父親は千葉で弁護士をしていると記されているので、父の実家で避暑をしていたのであろう。
立原道造は鮎子と20歳に出逢い、21歳に再会し、22歳に鮎子が結婚したことを知る。
鮎子との淡い恋が別離になる前、鮎子は叢(くさむら)に咲く黄色い花の名を口にした。「キスゲの花よ。夕方咲いて香りを放ち、朝には枯れるの」。
道造は何も知らなかった。キスゲの花のことを。いやキスゲではなかった、鮎子のことを何も知らなかった。道造はキスゲの花にゆうすげと美しい名前を与え、それを擬人化することで鮎子に重ね合わせた。
自分は何を知りたかったのか。この恋は淡かった。何かを知りたくても淡いあこがれが先に立ち、道造はうっとりとしていた。何を知りたかったのかもわからなかった。
別れの日、それは昨日であった。
「昨日の風は鳴つてゐた、林を透いた青空に
かうばしい さびしい光のまんなかに
あの叢に咲いてゐた、そうしてけふもその花は
思ひなしだか 悔ゐのやうに――。」
別れの予感がした。しかし道造は鮎子を引き留めることができなかった。夕方咲いて香りを放ち朝には枯れるの。鮎子をキスゲの化身として道造はゆうすげびとと読んだ。
ゆうすげを植物図鑑で引くとキスゲの別名と書いてある。立原道造の淡い恋がなければ、ゆうすげという言葉は生まれなかった。
いまの時代と違い、メディアが限られていた時代には、立原道造は、若者にとって圧倒的なスーパースターに違いないのである。この青春詩「ゆうすげびと」は多くの人に読まれ支持された。
話を詩に戻す。
「しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔ゐなく去らせたほどに!」
思いなしだが悔ゐのやうにと思ったが、そうではなかった。鮎子は道造の前から悔いなく去ったのだ。この淡い恋は道造の片想いであった。
恋を失ったものはいつでも勝者である。心のひだに淡い切ない思い出を残し続けることができるからである。
スーパースターの詩集は広く読まれ、ゆうすげの名は軽井沢では一番早く、親しみを持って迎えられた。
ネットで調べるとゆうすげを使う地域は軽井沢、群馬県の榛名湖が多い、あとは山口県、熊本県阿蘇など数か所にに限られている。例えば日光に咲くきすげは日光キスゲと呼び、日光ゆうすげとは言わない。
軽井沢人は、「ゆうすげ」の発祥地であるから、これがキスゲとは思っていない。しかしそうではない。軽井沢を愛した立原道造がキスゲの花に与えたあまりにも美しい別名であったのだ。
植物も種の保存競争にさらされている。
動物は自らが動けるから、自らを着飾って化粧し、異性と接触ができる。しかし植物は限られて一部を除いては動物のように動けないから昆虫類に種の保存を委託しなければならない。
花が美しいのは、昆虫を引き寄せるためにである。花の香りが良いのも人間のためにではない。そこで昆虫を引き寄せる競争の激しい日中に咲くことをやめ、夜に咲いて、香りを放ち、昆虫を集め、受粉活動を行う種族がいる。
ゆうすげはまさに後者である。軽井沢の鈴木美津子さんも、ゆうすげを数本植えるだけで、夕方歩くと必ず花の香りで引き留められると私に言った。
上の写真は、ゆうすげと同じように南西諸島の夜に咲く花である。月の光に目立つように淡いピンクが入った白い花を咲かせて良い香りを発する。
鮎子は、道造にとって不思議な魅力を持った女性に映ったのだろうと思う。それはそうだ。鮎子は弁護士の娘で、父から社会の裏事情を聴かされている。いまごろの女性とは違い十分に大人の女性だ。
一方道造は20歳。大学生で青き詩人である。
片想いの相手は手が届かぬほどの異性。鮎子は対等に道造を処してはいなかった。そのギャップから生まれた手が届かぬ存在にゆうすげびとと名付けた。
「ゆうすげ」が、なんとも美しく軽井沢を愛する人々の心に響いているのは、道造が詩人であったことも由来しているが、実は結核で24歳の命を失った道造が、追分の地で片想いした女性への強いあこがれと別離の寂しさが秘められているからだと思う。