8月31日、私はガソリンスタンドが開くのを待って満タンにし、関越に乗った。途中若い人たちの追突事故があって渋滞したものの、事故でクルマの流量が絞られてその先は渋滞はせずに予定より一時間遅れで軽井沢に着いた。
東京の気温は33.5度であったが、軽井沢は25度に下がっていた。クルマにサーモが付いていて外気温が分かるようになっている。軽井沢はススキの穂が目立ち、緑の葉も青々とした力強さは残っていない。コスモスが咲き乱れてもう初秋であった。
私は寝不足が続いていた。当日の朝、どうしようかと思った。寝ても一日動いても一日と思って寝ぼけ眼でハンドルを握った。
高速道路の運転は単調だ。私はやがて睡魔に襲われた。そこで激しい音楽と思いマライヤキャリーを流すとビートが効いたリズムがさらに深く催眠へ私を誘い込んだ。
サービスエリアに入って仮眠しようと思った。その間、しばらく走らなければならないことを知っていた。戦うという言葉がぴったりであった。ようやくサービスエリア3キロを示す表示が出て緊張感が緩むとさらに睡魔が襲ってきた。
サービスエリアの分岐が見えてきて私はクルマを左車線に寄せた。一瞬、眠ってしまった。麻酔薬をうたれた時と同じだ。抵抗できない眠りであった。
はっと気づいた。分岐を示すコンクリートが眼前にあった。このまま進めば2秒後にぶつかる距離であった。私は急いでハンドルを左に切り、思い切りブレーキを踏み、急減速してからブレーキを開放し、次に右に制御した。右手でハンドルを持って眠ったがために、筋肉が緩み腕の重さでハンドルが右に切れたのだろう。しかし筋肉が緩んだおかげで首が前に倒れそのショックで目が覚めたわけである。
一瞬の眠りであった。睡魔とはよくぞ名付けたものだ。やばかったなと思ったが、すぐにけろりと忘れてクルマを駐車場に停めてソファーを最大に倒し、座席をフラットにしてぐっすり寝た。
軽井沢の果物は端境期であった。桃は終わりで、スーパーにあるものは予冷品、つまり熟す前の硬い桃を採って冷蔵庫で冷やして熟成を遅らせたものであった。本格的な葡萄の時期はこれからであった。野菜は高くきゅうりは一本59円であった。すいかは今年最後の商品ですと看板が出ていた。梨もあったが数は少なかった。
おなかが空いていた。追分宿の旧道を走ると堀辰雄記念館がある。この日はたくさんの人が追分宿を歩いていた。風立ちぬの影響であると思った。「きこり」でそばを食べて、それから中軽井沢へ向かった。天皇陛下、皇后陛下が草津から軽井沢へ戻り新幹線で帰京する時間が間近に迫っていた。146号線は警備が物々しく、一時的に交通止めになるようであった。
中軽井沢で人と会い、40分ほど話をした。146号はびっしり詰まった渋滞であった。会った人から18号への抜け道を教わった。これはありがたかった。私は軽井沢警察署横から離山通りを抜けて旧軽井沢に向かった。
午後4時。多くのクルマが碓氷軽井沢インターへ向かいだしていた。
私はアポをとってある美術館を訪れ、館長と話をした。山野草の話を聴くためであった。
大好きであった然林庵は一時休業していた。閉業かもしれない。軽井沢のビジネスは本当に難しい。1年のうち6か月は冬で、観光客は真夏に集中し、あとは紅葉のわずかな期間だけだ。 裏道の裏道にある然林庵は、知る人ぞ知る大好きだった喫茶店だったのに。美しいログハウスでできた森の中に佇む隠れた喫茶店だったのに。
店先に並ぶ果物が季節ごとに変わるように時代は廻っている。出逢いと別れを繰り返しながら。