帯広空港から襟裳岬に行くには、広尾町を抜け、黄金道路を通る。黄金道路とは見栄を張ってつけた名前ではない。黄金を敷き詰めたほどお金が掛かった道路なので、べたの名前が付いたのである。
森進一が唄う襟裳岬は岡本おさみが詩を作り、吉田拓郎が曲を作った。歌は作詞家と作曲家と歌手の三者が一体となったときに名曲になる。
私が襟裳岬に行こうと決めたのは、この唄を聞いたからではない。いや感傷的な詩の影響もあったのかもしれない。哀しい思いを暖炉にくべて燃やしてしまおうなんてなんとも思いが篭っているではないか。しかし本音は海底から山頂まで連鎖していることを体感しようと思ったからであった。その連鎖が人の手で断ち切られた時に自然は人に牙をむくこの現場を確認したかった。
2001年3月にNHKのプロジェクトXで「エリモ岬に春を呼ぶ」が放映された。明治になって開拓団がこの地にも入居した。永い冬の寒さに、開拓団は森を伐採して暖をとった。やがて放牧もあって、襟裳岬は木が一本もない不毛の地となった。すると砂は海に流れ昆布は全滅した。寒流と暖流がぶつかる最高の漁場は魚が棲まない死の海になった。
プロジェクトXは不毛の土地に植樹をする戦いであった。幾度植えても木は根付かない。植樹に参加する人は次第に減っていく。いくら挑戦しても失敗に終わる。私が訪ねた襟裳岬は年間に風速10メートル以上の強い風が約三百日も吹いている砂漠であった。
私は、自然連鎖を断ち切ることがいかに恐ろしいかを南の島で学んだ。
地球は海底から山頂まで連鎖活動をしている。砂浜に生える木は砂をがっちりと根でくわえ、しかも地を這うように、風に吹き飛ばされないようにできている。砂浜はこうして守られ、陸からの泥は砂でろ過されてきれいな雨水だけが海に流れる。逆に押し寄せる波のエネルギーは砂浜で吸収し陸地への侵食を防いでいる。海と陸では水が空気に変わる所だけが違う。海に住む生き物はえら呼吸で酸素だけを取り入れ、陸に住む生き物の多くは肺活動で酸素を取り入れて生きている。呼吸方法が違うだけで後は海底から山頂までつながり連鎖しているのである。
南の島では潮・塩害を防ぐために砂浜に生えるこの木を抜いて代わりにコンクリートで防潮堤を作った。木を抜いたことで砂浜は壊れた。コンクリートで海と陸地を遮断したことで陸からの雨水はコンクリートの切れ目を目掛けて集中し、大量の雨水が数箇所に集中したことで砂浜を壊していった。
やがて海に砂が流れ込みさんご礁は死滅した。魚は獲れなくなった。次第に波は防潮堤に直接当たるようになり、美しい砂浜は消えた。 波が 直接に当たることを予想しないで設計した防潮堤は基礎部分が抉り取られ、崩れ始めた。塩害は予想のつかない場所で起きていた。植物は枯れ、金属はぼろぼろになっていった。これまでに起きなかった災害となったのである。すべては自然連鎖を人間が断ち切ったことから始まった。
冬の襟裳岬は強風が吹いていた。人の暖気は一瞬にして奪い取られてしまうほどの冷たい風であった。襟裳岬につながる日高山脈から凍った風が吹き降ろしていた。
これなら、人が森を壊すのは仕方がないと思った。当時は自然連鎖を断ち切ることが高価な代償を必要とするなどとは誰も知らなかった。一年に三百日近くも強風が吹き体の熱をすべて奪い取ってしまう冷風が吹く地であれば、森を壊しても命を守るのは必然であると思った。しかしそれでも、自然はこの地に住む人々に大きな罰を与えた。人が不毛の地にした成果として自然は人に不毛の海を与えたのである。豊かな森も豊かな海もすべて不毛の砂漠と化した。
この土地に住む人たちは、いつ哀しさを暖炉に燃やしたのだろうと私は思った。そんな余裕はない。あるはずがない。人々はからだを丸めて体熱を奪い取る風に耐えるのが精一杯であった。
真冬に燃やす木がなくなったときに、かつてこの地に住んだ人々はどう生存していったのかと思った。生存しても過酷であった以外には想像もつかなかった。
多くの人が植林を止めて去っていったが、ほんの一握りの人だけが諦めなかった。
やがて黒松が砂に強いことを発見する。こうして土地を小さく分けて塀を作りそこに黒松の苗木を植林する方法が完成する。長い時間が掛かった。
それでも海底は砂漠であった。砂は岩の隅々まで入り込み昆布は生育しなかった。
アイヌの古老が、いつか大きな嵐が来て海の底を洗い流してくれるという言い伝えがあると言った。人々は古老の言葉を信じひたすら待ち続けた。そうしてある年、その日が来た。大きな波は海底を洗い、大量に積もった砂をどこかに運び去った。やがて時が流れ昆布が生育し始め、次第に魚が戻ってきた。
「吹きすさぶ海風に耐えし黒松を永年(ながとし)かけて人ら育てぬ」天皇陛下は襟裳岬を視察してこの歌を残した。
人間はいつから自然より偉いと思い始めたのであろうか。自然を克服することが文明である。しかし自然を克服したことで文明は滅びる。文明と一緒に人間も滅びる。
そうは頭では理解するが、この地に立つと自然との戦いとは命を守る戦いであったことに気付く。木を切ったあと氷点下の強風が吹きすさぶ冬をいかに凌いだのかとまたもや思い始めた。自分をその立場において考えたら震えが来た。襟裳岬に来てこのことを幾度思ったことだろう。それほど襟裳岬は血も凍るような厳しい寒風にあった。
広尾町に戻ってホテルと名がついた民宿で夕食を食べた。毛蟹のあらいが料理にでた。薪ストーブは暖かく、私はここでようやく生きた心地になった。
翌日広尾魚港に行って魚を見た。たらこを採るすけそう鱈がたくさん上がっていた。今ごろサメのこどもは獲れないのに、獲れる魚の季節が変わったと漁師はつぶやいていた。これも温暖化の影響だわさと、横にいた漁師が返事を返した。私は漁師の会話を黙って聞いていた。このサメは子供のうちに獲られてしまって幸福だったのかあるいは不幸だったのかと思った。
明治時代になって多くの庶民は食うことができずに北海道や未開の海外に渡って辛酸をなめながら土地を開墾した。政治の中枢になった人は薩摩藩や長州藩の一部であって勤皇派の藩であっても侍は家族を養うことができなかった。北海道開拓に従事した人たちは、皆ふるさとを捨ててこの地に渡った人であった。またも伐採しつくし燃やす薪がない状態でかの人たちはどう生きたのだろうかと思いが至った。人は何があっても生きていく存在なのだと、それが私が襟裳岬で抱いた哀しみの結論であった。サメは死んだことによって人に役立ったのであった。生きていても何か役立つことはできたのかとサメに問い掛けたが、答えるはずはなかった。かの人たちはこの地で生き抜いたから、北海道も、広尾町も、そして襟裳岬も、いまこうしてある。人は生きることだけで後の世に役立つのかもしれない。それにしても過酷な試練であった。
私は港に落ちた魚の切れ端に群がるゴメを写した。それから森進一の襟裳岬を口ずさんだが、唄にならなかった。
からだの中を風が通り抜けた。襟裳岬から吹いてきた風であった。