奄美大島はキリスト教の島である。その昔スペインはたくさんの伝道僧を黄金の国ジパングに送った。伝道僧は島伝いに日本を北上した。琉球から奄美諸島を経て九州に上陸した。僧の一部は大名や織田信長にまで影響を与えた。
奄美大島には本島だけで30のカトリック教会がある。なかでも笠利にあるアンジェラス教会は異彩を放つ。アンジェラスとは天使を意味するラテン語である。この天使はガブリエル、受胎告知をマリアに告げた天使である。この教会の鐘をアンジェラスの鐘という。
アンジェラスの鐘といえば有名なのは長崎の浦上天主堂だ。伝道師は浦上で布教し信者を増やした。江戸時代にキリスト教が禁教となり多くの信者が迫害され、信者は隠れキリシタンとなった。明治になってバチカン市国から関係者が浦上の地を訪ねると、ここには大勢の信者がキリスト教を伝承して残っていた。神父が300年近くいない中で一つの宗教が形を変えながらも残っていたことに関係者は驚嘆した。
ここ奄美でも信者の末裔たちが十字架の墓地で眠っている。奄美大島の信者も同様な迫害を受けたろうと想像をする。儒教が色濃く残る文化の中で、戦時中は敵国の宗教と蔑まれ、時に敵国のスパイとまで指差されながら、行き場のないこの島で、信者たちは息をも満足に吸うことができない状況にあったのであろう。
私にはカトリック教会のブラザーを勤めているスペイン人の知友がいる。彼はボストンバック一つで指令一つで世界のどこへでも行って、現地に溶け込み布教活動をする。死んだらどこかの教会の墓地に入るだけという。島の墓地に立ってふと私は彼のことを思い出した。伝道師が奄美に上陸して布教活動を行っていた当時も、今と同じことをやっていたのだ。
私はいろいろなことを画像をめくるように想像する。きっと素朴な島民は伝道師に不審の目を向けたに違いない。しかし島民は伝道師に食と眠る場所を与えた。伝道師は島民の生活に入り込み、一緒に働き生活の喜怒哀楽を共にした。そうして朝晩、十字架に架かるキリスト像を礼拝した。島民は遠くから眺め、時間をかけて次第に伝道師の近くまで寄って一緒に手を合わせたのに違いなかったのである。
カトリック教会が政治と結託し、日本を植民地化する旗手として伝道師を送り込んだことは今では定説になっている。しかし伝道師のすべてに政治的な野心があったとは思えない。彼らは地域に入り込んで地に生き、地の土になる覚悟で布教活動をした。けれどもカトリック教会ではいつ、どこに伝道師の誰が派遣されているかを捕捉していて、定期的に伝道師を本国に戻すことをしていた。日本に至る航路を持って往復の航路に耐える大型船を持っていたのだ。そして彼らを通じて日本の情報は確実にスペイン帝国の耳に届いていたことは間違いない。
私は永田力画伯が70年代に描いたペン画を所持している。永田画伯も私も先祖は長崎県島原市の出身である。この絵画は長崎を表現したものである。見方によってはキリスト教、南蛮船など長崎の文化は白人によってもたらされ築き上げたものであったが、これらを一瞬にして破壊したのは白人の手でつくった原子爆弾である、とも受け取れる。
私は遠藤周作の「沈黙」を、繰り返して読んだ時期がある。信者は穴の中に逆さに吊るされ、血管の一部を切り裂かれている。改宗を宣言すれば信者は助けられるが、転び伴天連として終生、蔑まされ差別されて生きることになる。改宗しなければ確実に死ぬ。信者は助けを求めて神の名を呼ぶが神は沈黙を続けている。
島で宗教迫害の歴史があったのかは知らない。だから他地域の事例と比較して、迫害はあったろうと想像しているだけだ。私は宗教に対して冷淡である。ありもしないものを信じて迫害されて生きた者たち。ここに感じるのは人間の性(さが)が生み出す喜怒哀楽である。宗教は人心掌握のために政治に利用されてきた歴史を持っている。私は墓地に向かって手を合わせた。人間が捨て去ることができない性に、人生を翻弄された人々の歴史に対してである。
背中から泰さんの声が聞こえてきた。アンジェラスの鐘は戦時中に供出したのだけど、溶解されずに生き残って浦和で発見されたんです。いまこうして奄美大島に戻り、アンジェラスの鐘は毎日鳴り続けています。それから教会の左に見える建物は教会が運営する保育所です。遅くまでやっているので地域の人はとても助かるといっていますよ。
人は誰でも時代を背負って生きている。穴に吊るされ神の名を叫んで死んでいった人たちの生き方が時代背景と符合しなかっただけのことである。人は自分の性に翻弄され、時代背景に翻弄される。教会は時代に合わせて地域に密着した活動を続け信者を維持している。昔と今と何が違っているのか。時代だけである。人々の営みも教会の営みも何一つ変わっていない。泰さんの言うとおりである。今日もガブリエルの鐘はサトウキビが揺れる大笠利の町に鳴り響いている。