ある女性経営者がいる。彼女は夫が死んで経営を継いだ。素人であったが大変に努力をして企業を大きくし、彼女自身も大変な資産家になった。大変謙虚で、かつ求道的な生き方をしている人であった。私はこの人を含めたグループで国内はもとより海外を旅した。
彼女は非常に難解なクリシュナムルティの哲学書を読み、自我の終焉とは、英知とは、覚醒とはを考え、旅先でもよく瞑想をしていた。
一緒に旅した知人が旅先に持ってでた和尚ラジニーシ師の本を良い本だから読むといいでしょうと薦めた。彼女は一読して、とても危険な本です。この本を読んではいけませんと言った。私は彼女の眼力に驚嘆した。
受け止める側の精神レベルによっては甘美な誘惑から断りきれない危険さを付きまとう思想書なのであった。この思想家は善を善として受けとめるから悪が生まれる。善と悪とは一体である。だから悪を受け止めろと説いた。美を美として捉えるから醜が生まれる。美と醜は一体であるから醜を受け止めろと説いた。麻酔状態にある信者達は悪を悪と思わず、悪を行うことは美を肯定することと信じて行動をした。オームの原型になったのがラジニーシの思想であると巷ではいわれているが真偽は定かではない。こうした思想を瞬時で危険と見抜いたことを私は驚嘆したのである。
或る時彼女は、仕事に意欲がなくなったと私に真情を吐露した。有り余る資産を手にして欲しいものはいつでもどのようにでも手に入る状況であった。やがて本来の求道的な精神が彼女を覆い、もっと別な生き方があると思うようになっていた。
しかし瞑想をしても覚醒などできるはずはない。悟りなどは人間が到達する域ではないのである。宗教家が荒行をして生き仏と言われ、本人も悟ったような気持ちが持続しているが、あれは周囲から生き仏と崇められて、特殊な環境下で本人も悟った錯覚が持続しているだけだ。欺瞞に満ちた領域である。
私は彼女に走っている自動車のタイヤホイルが時に停止しているように見える話をした。
生きている時は生きればよいのではないですか。死ぬ時がきたら死ねばよいのではないですか。動と静は一つのものです。あなたは懸命に生きてたくさんのお金を得た。その結果いまのあなたは生きても居ず死んでもいない。動と静が一つになっていないからです。 これからは外から見て止まっているように見えるけれど動いている。動いているけれど止まって見える。そのくらいの無駄がない精神の働き方をしたらよいのですよ。「大いなる動は大いなる静です」賢明な彼女は理解した。
真実はこうである。 この人は動を引きずって静に入れず変わりに虚無に陥っていた。静と虚無とは異なる。虚無こそが底なし沼に人を陥れるものだ。なぜ虚無に陥ったのか。この人は働きづめで事業を大きくして彼女がお金を持ったからである。この人は欲しい「モノ」は手に入れられた。これからも欲しいと思いさえすれば手に入れることができる。モノだけでなく人の心さえもお金の力を借りて手に入れることができる。それを知った時、動のまま虚無の世界にたどり着いた。
彼女は虚無から抜け出そうとあがいた。クリシュナムルティを読んで悟りの境地に至ろうとしたのは実は虚無から抜け出ようとした行為そのものであった。繰り返すが人間は悟ることはできないのである。人間とは生きている時はなにがあっても生きていかなければならない存在なのだ。前に向かってしか生きられない存在なのだ。そして生き抜くだけでは人は疲れてしまう。だから生き抜くと同じウエイトで息を抜かなければいけないのである。
確か私は次のように言った記憶をしている。
止まっているように動きなさい。しかし止まったら動けないのです。動きながら静止するためにはある一定の動きが必要なのです。その動きを掴むことです。遠心力と求心力のバランスが取れた時に静止して見えるのです。止まってしまったら動けないのです。動いていないと止まれないのです。止まっているように見える程よい動きを生活のリズムとしなさい。
私の著書「脱・片思いマーケティング」のモデルになった大分市の黒川一さんの会社を訪問するとこんな言葉が玄関に置いてある。
「生き抜く力 息抜く力」
これこそが動と静のバランスを差している。過去にも未来にも現在にも掴まらず、たった今を生き抜き、そして息抜く力をバランスよく保って生きていくことが人にとって必要なのである。