都心はだいぶ空いてきた。クルマの数もいつもよりはるかに少ない。ふるさとでは親たちが子どもや孫の帰りを待ちわびている。ふるさとに向かって都会で暮らす人々が移動をはじめている。 道路も列車も飛行機も帰省ラッシュだ。
省とは反省の省で、省みるだ。故郷に一時的に戻ることを帰省というけれど、何を省みるのかといえば、別れて暮らしている両親の姿や暮らしを省みる。親が他界をしていれば、墓参をする。これが帰省の本来の意味だ。
宗教に心の支配をされないで、思想良心に対して自由に生きている人を何人も知っている。しかしそう生きている人のなかには宗教を信じて暮らしている人より、よほど自らの良心に照らして生きている人がいる。
お盆の時期に2チャンネルでは、墓参を巡っての是非が論じられている。なぜ墓参をするのかから始まって葬式のあり方や自分はどう考えるかまで、疑問が投げかけられている。
私は教団宗教を信じない。私は両親のDNAでつくられた存在であり、私はいつでもそのことを感じ取って生きている。だから私はいつも両親と一緒に生きている。両親が死んでしまった後に教団宗教家の手を借りる必要はないと思っている。増してや自分が死んだあとならなおさらだ。
骨を一切残さずに火葬する方法をメニューに加えた方がよいのではないかと私は思う。これまで縁ある人の火葬に立ち会ってきて、残る骨の量が骨壷にちょうど収まるように火葬していることを知っていた。火力を強めれば骨は残らない。それでいいのだと私は思う。
こうした発言は社会の中ではタブーであることはわかっているが、死が科学的に解明されて天国も極楽も地獄も煉獄もないことが世界的に有名な科学者によって発表されているのだから、宗教に心を支配されないで自由に生きていくことを考えた方が良いと私は思う。
「死は生物がつくった最高の発明だ。旧いものが新しいものに生まれ変わるのだから」と言ったのはアップル社のCEOジョブズである。宗教はいつでも政治の具になった。日本では誕生を神社が司り、死を寺院が司った。徳川時代には寺が檀家を管理する制度をつくってキリスト教普及を監理した。宗教は奈良時代から政治の具とされて、政治と共に発展したのである。
私は両親といつで直結している。私自身が両親のDNAでつくられたものであるからだ。私は釈迦の教えに直結しようとしている。いくつかの経を読み、その意味を理解しようとしている。これは私の思想良心の自由によるものだ。
このような意味合いから、私は都会に暮らしていても毎日帰省をしているようなものである。いつでも両親と一緒にいるのだから。