気仙沼市が発表した新防潮堤は、長さ117キロメートル、高さ最大11メートルのコンクリート壁を海辺に立ち上げて津波から市民や資産を守ろうとする計画である。市民からは70%の生活者が高台に移転するのだから、守るべき価値は大きくないし、美観が損なわれると反対をしているようだが、市は強引に推し進めるらしい。このニュースはネットで検索すればいくらでも出てくる。
事の本質は、高台に移転するから・・・守るべき価値が少ないから防潮堤は不要・・・というレベルではない。
地球は、海底から山頂まで自然環境は連鎖している。人間の体は機能がすべて連鎖していることと同じだ。地球もあらゆるものが連鎖しあって今のバランスを作っている。海辺は陸と海の接点で重要な役割をしているのだが、それだけではない。人間が自然環境の連鎖を途断することで、自然は人間に牙を剥く。
117キロメートルの長さ、最大11メートルの高さのコンクリート塀を立ち上げると海から陸に来る海風、陸から海に流れる陸風が遮断される、風とは空気の流れだから空気の流れが壁にぶつかることになる。
わずかな高さでもこの被害は大きく、奄美大島では防潮堤のせいでとてつもない場所で作物が塩害を起こし枯れていった。つまり壁に突き当たった空気は乱気流を起こし、渦を巻いて遠く離れた場所に吹き降ろすことになる。
海のそばに塩害がでることは、承知のことだから、民は海辺に稲作をするようなことはしない。海辺から遠く離れた場所に田畑を作るのだが、この場所に塩を含んだ海風が吹き降ろせば、たちまち塩害が発生する。
奄美大島の古老たちは、これは防潮堤の仕業と、直感的に理解するが、行政や政治家はこれを認めない。防潮堤に関わるこんな事件は、日本中に転がっているのだが、表ざたになっていない。だから転んでも転んでも同じ道を歩むことになる。
自然環境の連鎖を遮断することは、すなわち気仙沼市が計画しているような大型の防潮堤を造ることは、分かりやすく例えれば、森林を伐採し丸坊主にすることと同じだ。
地球は、長い時間をかけて今の地形と自然環境を作った。いま残っているものは、完成した形だ。
砂浜にアダンが残っているのは、根が砂をがっちりと抑える役目を果たしているからだ。
このことは、人間の体を作ったことと同じ意味だ。存在するすべてのものが有機的につながって役割を持ち、自然の連鎖を回している。生態系の連鎖もこの領域の話である。
連鎖を遮断することは、すべてのつながりがなくなることだ。
ネックレスは一つの連鎖が壊れればネックレスとして連鎖の機能はなくなる。
海と陸地の長い距離に亘って、風の通り道を遮断する装置を立てたら、自然環境の連鎖は途断されて、塩風による弊害は自然環境を壊し、田畑の植物を壊し、森林を壊し続ける。陸の上に住む、人間の営みを壊す。
そればかりか、陸から流れる雨水は、いつまでもコンクリート壁の周辺にたまり水となる。そこには非衛生的なごみがたまりだす。海への排水は物理的にも制限され、海に流れた雨水は海を汚染する。
私は予言する。この新防潮堤ができたら、日本中の島々がコンクリート行政の結果、作り上げた防潮堤による生じた広範囲な被害が広域な地域に襲う。この愚かな計画は中止しければいけない。
地球の出来事とは宇宙の出来事だ。宇宙の出来事に人間は逆らうことなどできない。人間ができることといったら、ただ従うことだけだ。
人は経験から学ばなければいけない。先人がここから下には家を建ててはいけないと石碑に記した言い伝えに従うだけが正しい選択である。
人間は宇宙の営みに対抗できるほど力があるとうぬぼれてはいけない。自然の脅威から防御することで文明は発展したが、脅威への防御とは寒さに対する暖房器具とか、水道インフラとか電力インフラとか、建築技術とか、寒冷地に強い米の開発とか、医薬の発達とかそのようなものだけである。
大地震、大津波、大噴火の類、地殻変動にはどんなことを対策しても勝てるわけはない。津波で人命を失ったことは悲劇である。だからといって同じ過ちを犯さないために最大11メートルの高さ、長さ117キロメートルに亘ってコンクリートで防潮堤を造るというのは、311から何一つ学んでいない愚かな発想である。その裏にコンクリート行政が蠢いていると思えてならないのは私だけだろうか。
そして美しい海辺の美観を完全に捨てて、刑務所の塀よりも高く立ちはだかり、どこまでも続く巨大なコンクリート防潮堤を仰ぎ見ながら24時間365日、生涯暮らすことになる住民はそれでよろしいのですか。