昔、今から遡ること30余年前、福岡に住む友人に誘われて釜山へ旅行したことがあった。友人は韓国が好きで福岡からフェリーに乗って釜山へ遊びに行くのだといつも自慢げに話をしていた。日本でも、路地裏の又細い道を入った奥にある飲み屋を見つけては何度も通い親しくなっていくのが、この男の習わしだったから、君と釜山に行ったらどんなことになるか、怪しくて怪しくて!と笑いながらやんわりと男の誘いを断ったのだが、ケンチャナヨと抑揚をつけて面白い目をして笑うものだから、よしそれなら行こう、ただし現地集合現地解散だ。君はフェリーで行けばよい。私は東京から飛行機で行くよと答えるとすぐに面白い目をしてまたもケンチャナヨと言って右手で自分の胸を叩いた。宿も何もかもとるから安心してきてと言ったので頼みますと言って、日程を調整して話は終わった。それから友人のことを、本人に確認してケンと呼ぶようになった。ケンチャナヨとは、心配いらないよ。何とかなるさ。大丈夫だよという意味を持つ朝鮮語である。
近隣諸国は何度も行っているが、年長者といくことが多かったので、ホテルは一流、食事も一流、移動は韓国なら優良運転手の称号を持っている日本のハイヤーみたいな位置付けにあるドライバーがハンドルを握るクルマを使って、いわば殿様旅行をしていた。
釜山空港で二人は出会った。ケンはバスで宿に行くというから、ま、したがうか!と腹を決めてバスに向かった。町に入ると、そこはかなりの貧民街で町並みはバラックが立ち並んでいた。一年中薄着の子供たちが顔や手を薄墨で塗りたくったような汚れた顔をして動いていた。そうだ。動いていたのであった。
バス停留所で降りてしばらく歩くと、やや広い路地があり、路地に入ると突き当りに一軒の木造アパート風の建物が見えてきた。あそこが宿ですとケンが言った。え?うそだろ?。いえあそこです。
ケンちゃんの顔に悪びれた表情はなかった。それは小さな木造二階建て。モルタルづくりであった。しかも相当の古家でなぜこれが宿なのかと疑った。民宿かと思ったが違った。玄関に入って奥を覗くと真ん中に廊下があって左右にドアが付いているだけの建物であった。昔、日本にもあった木造二階建てのアパートだ。廊下の天井からは赤いペンキで塗られている電球が赤い光を放っていたが廊下全体を照らすにはあまりにも光量が少なく、多くの赤い光は暗闇に吸い取られていた。
ケンは、この宿に慣れ親しんでいて鍵を貰ってお金を払うと脱いだ靴を慣れた手つきでげた箱に入れてすぐに二階へ上がっていった。部屋は日本間では4畳半。廊下と同じに赤いペンキを塗った電灯が一ついて、古びたスチールのロッカーがあるだけの部屋だった。床はオンドルで硬い床に油紙が敷いてある。押し入れには敷布団と2つの枕と一枚の掛布団があるだけであった。ドアの裏側には薄黄色のタオルが一枚掛けてあった。
面白いじゃない?経験したことがないから面白い。で、宿賃はいくらなの?払うから教えて?
ケンチャナヨ。私が払うから大丈夫だよ。
いくらなの?
ケンチャナヨ。千円もしないから大丈夫だよ。トイレを案内するよ。お風呂はないけど熱い湯が出るシャワーがあるから心配ないよ。
それから、二人は宿を出て町を歩いた。30余年前の韓国、台湾、タイ、インドネシア、香港、どこでも見慣れた町、日本人から見れば貧民街のように思えた町が目の前に広がっている。道路に面した家は、椅子やテーブルやオートバイを置いて歩道を占領している。道行く人は誰も文句を言うわけでなく黙って車道を歩いている。車道には自転車屋オートバイ、それに自動車や観光バスがあふれている。
ちょうど大型観光バスが走ってきた。乗客は日本人であった。はじめて釜山を訪れた団体客であったのだろう。彼らの目は檻の外から檻の中を覗いている目であった。私はこの時、自分は檻の中にいて、檻の外にいる人から眺められていたことに気付いたのであった。
自分は境界線を乗り越えて檻の内側に入り込んでいたのだ。いつどうして入り込めたのだろうか。
じたばたしても仕方がないと覚悟を決めた時か。それとも赤いペンキを塗った電灯を見た時か。そんな簡単に境界線をまたいで入り込めるのか。
ケンは、この町と、なじみになっていた。夕食を食べて飲んだと言ったがこの民族料理はいささか手が出なかった。私は宮廷料理か、焼肉か、世界で通用するホテルの朝食などしか食べていなかった。しかしケンはいつも食べているような手つきで食べ、片言の韓国語と思い切りの笑顔で店の人とコミュニケーションをとって、すでに関係性は通じ合っていた。
それからバーに行って酒を飲んだ。ケンはここもなじみであった。そして三軒目は女性のいる店でだった。片言の日本語を話す彼女たちは普通の女の子で、近所の家からちょっと着替えてこの店に出勤しているような感じだった
。実に気さくで下町の女の子という感じであった。そのうち女の子がケンに、どこのホテルに泊まっているのと訊ねた。ケンはまじめな顔をして〇〇と答えると、女の子はウソと言いながら悲鳴をあげた。あそこは連れ込み宿よ。日本人があそこにとまるなんて信じられないと言ってまた悲鳴を上げた。ケンはケンチャナヨとまじめな顔をしてから目を大きくくるくるさせておどけて見せた。それからまた二軒目のバーに戻って、お開きになった。
次の夜も同じコースをたどった。毎回このコースだとケンは言った。本当に癒されるんだとも言った。その日の昼、町を歩いていると観光バスからたくさんの日本人が興味深々な表情でこちらを見ているシーンを経験した。
私はふと、こちらが檻の外で、観光バスから見ている日本人が檻の中の住人ではないかと思うようになった。振り返ると私はこれまで100回を超える渡航をしている。だがいつも安全な場所にいた。ロスでは夜は外には出ないでくださいね。ホテル前でも怖いですからねと言われ、ホテル内で過ごした。サンフランシスコでは二週間ほど宿泊したフォーシーズンホテルからも、外に出て左に向かっで二つ目の筋から先は危険だから行かないでくれと言われ、従った。NYでも、シドニーでも、イタリアでも、スペインでも、みな同じだった。
いつの間にか、日本人は、イヤ、日本島民である私は、いつでもどこでも必ず境界線を敷いて、その内側だけで暮らしていることになじんでいると気付いた。それがたった2泊3日の旅で、境界線の内と外の両方があって、境界線は自分自身が作り上げた虚の線引きであると発見できたのである。二日目の夜、ケンは二軒目のバーでしみじみと言った。ここは日本では体験できない場所なんです。自分にとってはドリームランドで、心の居場所なんです。
私はケンに、[出会った人たちは大地に根を張ってたくましく、誇りを持って生きている。この人たちにとって境界線という概念は存在していないようだ」。と話した。境界線は、安全か危険かの境目と同時に、差別に帰結する境界線であった。人間を不自由にしているのは、自分自身の心の中にあって、時折引っ張り出しその時の都合で引く境界線である。
万引き家族を観終わって、日本橋界隈の美しい夜道を一人で歩きながら、私は30数年前の釜山で体験した境界線のことを思い出していた。
ジョンレノンのイマジンは、境界線の無意味さについて謳い上げた叙情詩である。
想像してご覧。天国と地球との境界線はないんだ。地獄と地球との境界線もないんだ。国と国の境界線もないんだ。戦争と平和の境界線もないんだ。宗教と無宗教との境界線もないんだ。人種同士の境界線もないんだ。みんな、境界線をつくるからそこに差別が生まれ、争いが生まれ、戦争が生まれ、難民が生まれるんだ。宗教戦争が生まれ、ただ空があるだけの天国を信じ、ただ地面があるだけの地獄を信じるようになるんだ。君の心の中にある境界線を、いつも、ここにあると思っている境界線を少しだけずらしてごらん。ほら、とても自由になれただろう?とても楽になれただろう。境界線がなければ人間はもっと自由になれるんだ。
思いつくままに推敲も吟味もせずに書き込むとこんなことになる。
釜山での経験は些細なことであったが私に大きな衝撃を与えた。それまで檻の外から絶対に入れない鉄格子の向こうにある社会を見ていたのだから。それがあるきっかけで檻の中に入ってしまったら何とも自由で、楽で、信頼関係で結ばれている世界があったのだから。(2)に続く)