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深澤孝哉画伯の油彩画を入手することになった。絵はF10号。明日の午後に届く予定だ。
深澤画伯は、1937年生まれ。東京芸大で林武画伯に師事し61年卒業。そのまま専攻科へ進学。63年に修了。
65年にフランス国立パリ高等美術学校に留学。67年に国立パリ近代美術館コンクールで第二席を受賞。68年帰国。白日会で活躍。実力ある画家である。
深澤画伯は色彩に長けている画家である。上の写真で白色と黒色のモノトーンと茶色とピンクと空色以外には使用していないことが分かる。絵のモデルとなった舞台は、パリ近郊の「オーベル シュール オワーズ」である。この町並みの描き方は、西洋美術、特にゴッホの筆とよく似ている。
事実、深澤画伯の色彩は、特に黄色はゴッホの黄色である。この絵も黄色を使い、ゴッホの筆遣いで描いたらとは思うが、深澤画伯は茶色とピンクと空色の反対色を使って、ゴッホとは全く別の絵を表現している。
この絵がおもしろいのは遠近法を使いながら、遠近法を想像することで新しい視点をつくり上げたことだと思う。
坂道を登るとその先には遠近法の起点となる一点にたどり着くはずだが、目の前にある建物が邪魔して坂の上に展開する景色は想像するしかない。そこで鑑賞者は、建物の、空色に塗られたドアに目が移るのだが、初めて色彩の美しさに気づくことになる。
深澤画伯の代表作の一つ。「ダンテの主題による神曲習作」。
1500号という巨大な画面に神曲の地獄編、煉獄編、天国編が描かれている。この絵は長野県の佐久市立近代美術館に収納されている。42歳の作品だという。
緊急事態宣言が解除されたら軽井沢の写真家久住さんの写真展を鑑賞し、ついでに脇田和美術展に立ち寄り、夕方から小諸で親しい庭師W氏と、40年来の付き合いをしている画家O氏と会って一献を傾け、親交を深めようと計画していたので、早速に佐久近代美術館に確認したところ、常設はないとのこと。特別閲覧制度があるとのことであった。
事前申請し、一回につき¥5230の閲覧料が別途かかるという。
この巨大な絵は縦4枚組だから、ばらして保存しているはずなので、「つなげることは大変な労作業になりますね」と訊くと、「そういうことになりますと弱弱しく静かな声で返事があった。
私欲を満たすために、数人がかりの大作業をさせては申し訳ないと思い、「展示する時には知らせて欲しい」とお願いして電話を切った。
良い絵に出合うと心が動く。それはそれで良いことだと素直に思う。これで深澤孝哉画伯の絵は2点になったが、良い絵を探してあと2点くらいは手元に置きたいと思う。
投稿情報: 15:23 | 個別ページ
この月を何度仰ぎ見たことだろうか。欠けても満ちてきて満月になり、また欠けていく。この繰り返しが、太古から今日まで連綿として続いている。
琉球、八重山の人たちは、月を見れば、あの時の月齢に戻っているけれど、変わったまま戻らないのは人の心と唄った。
とぅばらーまは、八重山民謡最高の叙情歌である。
曲は一つしかないが、百人が集まれば百曲のとぅばらーまがそこにある。人々は男女の情愛をとぅばらーまのメロディに載せてきめ細かく唄う。
私がそんなとぅばらーまを知ったのは23歳のころである。凡庸な学生生活が終わってビジネスの社会に入った。出会うもの一つひとつが新鮮で目が奪われる毎日であった。その中で出会った曲がとぅばらーまであり、この歌詞であった。
その時、確かに一人の画家がいた。私の記憶では、画家の鶴岡政男と一緒であった。画家は23歳の私にとっては仰ぎ見るような人であった。鶴岡さんとは、何度か新宿2丁目にお供をしたが、はじめの画家とは共にしたことがなかった。その画家と再会したのは19年後である。その時は40歳を過ぎたこともあり、遊びで引けを取ることはなかった。中庸中道を歩む、と言って画風は時に怒りをにじませた怖い絵を描いたその画家とは、長く続いたが何らかの理由があって離れた。
そして再再度、出会うことになる。
それから、画家が逝くまでの期間、時間を共有した。
昨夜の月を見て、自宅に置いたままの画家の絵を寝室の床の間に掛けようと思い立った。
この月は、時間を切り取っているから欠けも満ちもないのだが満ち欠けが起きそうである。
振り返ると、私は、78歳を超え、ずいぶんと濃密な人生を過ごしたものだと思うようになった。
この月を、床の間に掛けてから、私はとぅばまーらの一曲を口ずさんだ。
うむてぃかゆらば しんりんいちり またんむどぅらばむとぅぬしんり
思て通らば千里も一里 またも戻らばもとの千里
投稿情報: 17:10 | 個別ページ
オフィスを明るくするための明るい絵の第二号が届いた。右の絵がそれだ。
星守雄画伯の「ボート場へ集まる人々」。F15サイズである。
星画伯は、東京芸大を卒業時に大橋賞を受賞。日大芸術学部で美術の教授を務めた方である。
左側にある絵は、永田力画伯の「シベリアの夜」。美術館級の絵である。明るいとか暗いとかを超越した油彩画でこの画伯の本領を発揮したパワーを持っている。この絵は、私が元気なうちにしかるべき美術館に寄贈しようと考えている。
星画伯の絵は、プロに絶賛される技法と色彩感覚を持ちながら子供にもわかりやすい。
そこで、星画伯の絵を手に入れて奄美大島の大和村にある海沿いの小学校に寄贈した。
あと2点ほど集めたい。6号くらいの絵画が良い。
深澤画伯のサンマリくらいがちょうどいい。深澤画伯の絵を追いかけたら、このような半抽象画は見当たらなかった。サイズも良く色合いも良い。執筆を続けながらふと考える時にさりげない絵、意味を押し付けない絵は都合が良い。
投稿情報: 15:46 | 個別ページ
寝室にあった安徳瑛さんの絵をオフィスに移した。二つを並べた。
安徳さんは空間的存在である絵画に、一瞬の時間(Time Stop)を描いた哲学者である。
ミックスドメディア(混合技法)で描いたこの絵は、安徳さんが追い求めていた自らの最終到達点であった。夭折しなければ一体どこにたどり着いたことだろうと思う。
私は、安徳瑛論を引き下げて、彼をこよなく愛した画廊の亭主と議論を吹きかけたが、まったく理解せずに、粗末な持論を繰り返し語っていてうんざりしたことがある。
安徳さんは、人間の存在を時間論と空間論から攻めて、人間は時間に流されていく弱き存在である。しかし、人間は時間の一瞬を活き活きと生きることができると開悟した。死を感じ取っていたからこそ生を見つめていたのだろう。
これらは安徳さんの絵を毎日眺めていれば感じ取れることである。
画面の中で生き続けている少女は、風の音に耳をふさいである。背景の木々や家々は吹く風にさらされている。突然に風がやんだ。時間は白色で表現している。しかし時間は流れていない。時間はストップしている。次の瞬間をこの絵は引き出してくれる。
それに重要なことは、安徳さんの絵には私欲が感じないことである。自分を売り込もうとか、旨く見せようとか、そんなものはない。貧困を極めた中村忠二さんが、私欲を感じない絵を描くが、安徳さんが描いた絵は同じようにさわやかさが抜きんでている。
深澤孝哉さんの絵を、安徳瑛さんの絵と並べてみたが遜色はまったくなかった。
その横に進藤蕃さんの絵を置くと、この絵が売り絵であることが歴然とする。
進藤蕃さんは、カラリストである。東京芸大の油彩科を首席で卒業し、大橋賞を受賞している。
一時期、彼の絵を追いかけたことがある。画集を買い求め、実際に力作を何度も見ている。
力がある画家であることは言うまでもなく、人気作家の一人でもある。
だが、この絵は、注文に応じて速攻で描いた売れる絵であり、かつ、売り絵である。カラリストとしての魅力は十分に持ち備えているものの大きな美術イベントの出品作と比較すると、格差に驚く。
今日は午前中、そんなことを考えながら深町純の中島みゆきを聴き、時間を過ごした。
13時~19時まで、原稿執筆に集中する。
投稿情報: 11:35 | 個別ページ
オフィスにある絵を、入れ替えようと思い立って、すぐに行動に移した。
第一便は、本日届き、替える絵と交替した。
深澤孝哉画伯の半抽象画「サンマリ」である。
深澤さんは白日会の副会長を務めた人で、いくつかの美術館にも買い収められている。
ネットで調べたが、多くは具象画で、半抽象はネットでは出てこなかった。サイズは6号である。
私が好きな画家、木村忠太画伯が全盛期のころを彷彿させる色彩感覚と力強さが気に入って速攻で入札し落札した。取り扱う画廊の亭主は誠実な人で、気分良く手に入れることができた。
良い絵を手にすることはとても楽しいことだ。
宅配便で届いて、すぐに開梱し、壁に掛けて、壁に掛け、紐の長さを調整して、じっくり眺めて、いいな、いい絵だなと思いつつ、執筆中の原稿を進めるため、PCに向かったものの、また絵のことが気になって、席を立って絵に向きあうことを二度もそわそわと繰り返した。
すると、他の絵との比較が私の脳内で始まる。
脳はオフィスにある約20枚の絵と、勝手に比較をし始め、優劣の序列をつけて私に返してくるのだ。
脳の働きかけは、予知していたので、最大5枚の絵が掛け外しの対象になると想定し、目下5点の油彩画を入札している。すべてを落札するわけではない。絵のレベルが重要なのである。
この絵を交替する前までは、すべての絵がそれぞれ同じレベルであったのだろう。陳列して違和感がなかったが、たった一つの絵を入れ替えたことでバランスが壊れ、脳は次のバランスを求めて比較をし、弾きだす絵を選択するのである。
そのデータは私が過去から今日までの絵画遍歴による。
私は、大したことはなく、ぼんくらで陳腐なコレクターに過ぎなのだが、なまじ足を突っ込んだがために脳が勝手に動き出すのである。
この動作は、AIの内、深層学習の動きと似ている。
壁下に移された絵は取り残されているわけではない。見る人の目線が変わっただけである。
投稿情報: 17:14 | 個別ページ
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