私は、全速力で200mを走った。夜間であったから春日通りを走る都バスは速く、あきらめていた始発電車が発車する2分前に終点に到着したのだ。息切れもせず始発の都電に乗り込んで着席した。私はこの夜、ジムに寄ってトレーニングし、それから都バスを待って大塚駅まで向かった。
さ、音楽を聴こうと両耳を触ったら右耳のイヤフォンがなかった。Apple好きで音楽好きとなったら、イヤフォンもiPods Proと相場は決まっている。走った時に落としたのだ。戻ろうと思ったが都電は動いている。誰かに踏まれて壊れている。あきらめるのに都合が良い思い方をして家に戻った。
3万円だったよな。また3万円か。そう考えるとちょっと悔しさが湧き出てきた。
翌日、オフィスで今まで忘れていた、「探すアプリ」があることを思い出した。
Apple製品を落としたり、忘れた場合にこのアプリで現在地を教えてくれるのだ。
見つかった?春日部市の右上にイヤフォンマークがあるではないか。
落とした右のイヤフォンは埼玉県に、左のイヤフォンは文京区のオフィスにあることを映し出した。凄いなー。
しかも住所まで明らかになっている(誤差はあるだろう)
大塚で落としたイヤフォンの片割れを拾って自宅まで持ち帰ったのだろう。
音楽が鳴っていれば気づいていた。しかし走った時は音楽は鳴っていなかった。体からは外れれば音楽は止まるから気付く。問題は走ったことではない。運が悪かったことだ。
しかし、存在する場所が分かっているのにあきらめることは悔しかった。音楽を聴けるツールが無くなってしまったからである。
一方で私はサブスクに登場する空間オーディオが気になっていた。もうステレオの時代は終わりだ。そういわれながらも空間全体から音楽が流れてくる音楽をいままでのイヤフォンで聴いてもさほどの実感はなかった。
新しく買うしかないと思い、ネットで探したらiPodsPro3が、新発売したと書いてあった。
すぐに茗荷谷のauショップに連絡したら1台だけ在庫があるとのことであったから押さえてくださいと即答をした。
しかし、それは私が落とした同じ型式であった。新型とはノイキャンを外した安価版であった。
私は¥30,580を支払い、同じものを購入した。片割れを拾った人は何の得もない。auショップは、損も得もない。私が買わなくても誰かが買うだろう。
損得ではなかった。
私の孤独は、小さなボディで必死に信号を送り、居所を知らせ、救出を待っている子を見捨てたことによる生じている心残りである。イヤフォンは小さな電子部品で、モノにすぎないが、私にいろいろな音楽を高品質で聴かせてくれて、勇気づけ、時には慰めて、あるいは、知らない世界を教えてくれた、美と知の発信元であり、心度が高い存在であった。モノを失うだけでなく温かい心を失ってしまったのである。